シド・ヴィシャス
シド・ヴィシャスに刺殺されたといわれているナンシー・スパンゲン。ドラッグの過剰摂取で自殺したとされるシド・ヴィシャス。”Live Fast Die Young”な人生を送ったパンク・カップルですが、実際に終止符を打ったのは、シド・ヴィシャスの実の母でヘロイン中毒者でもあったアン・リッチーでした。1978年10月12日の朝、シドはバスルームで血まみれになって倒れているナンシーを発見、当時住んでいたニューヨークのチェルシー・ホテルのフロントに「誰かが病気なんだ。助けてくれ」と電話をし、数時間後、警察によってナンシーの死亡と凶器のナイフが確認されます。このナイフは、シドのアイドルでもあったディー・ディー・ラモーンがデッド・ボーイズのスティーヴ・ベイターズにあげたものを見て、羨ましくなったシドが自らニューヨークで購入したもので、シドは凶器の持ち主として殺人の容疑で逮捕されます。ヴァージン・レコードが多額の金を払い保釈が認められたものの、同年12月9日、ライブ会場でパティ・スミスの弟トッドの顔面をビール瓶で殴りつけた暴行の罪で再度逮捕され、55日間ニューヨークの刑務所に服役しています。服役を終え出所した翌日、1979年2月2日、出所祝いとしてシドの新しい彼女ミッシェル・ロビンソンのニューヨークのアパートでパーティーが開かれます。パーティーが終わりベッドに入ったシドはミッシェルに「ヘロインを打ってくれ」と頼みますが、ミッシェルはこれを拒否、諦めないシドに困った彼女は隣の部屋に居たシドの母親アンに事情を説明し、アンはシドの居るベッドルームへと向かいます。そして翌朝、シド・ヴィシャスの死亡が確認されることとなります。遺体が火葬された数日後にアンがシドのジャケットから「俺とナンシーは一緒に死ぬ約束をした。だから、今度は俺の番だ。彼女の隣に埋めてくれ。革ジャンとジーンズとブーツの格好で。さよなら。愛をこめて、シド」と書かれたメモを発見したことから、長い間シドの死は自殺とされていましたが、1996年9月6日にヘロインのオーバードースで死亡する直前、アン・リッチーはジャーナリストでシド・ヴィシャスの伝記本「Too Fast To Live…」も執筆しているアラン・パーカーに、あの夜自分がシドにヘロインを打ったことを告白しています。因みに、ナンシー・スパンゲンの殺人は容疑者死亡としてシドの死後早々に捜査が打ち切られています。また、ユダヤ系であったナンシーは、ユダヤ人墓地に埋葬されましたが、ユダヤ系ではなかったシドは、隣どころか同じ墓地にすら埋葬されることはなく、出所祝いのパーティーにも参加したミスフィッツのベーシスト、ジェリー・オンリーとアン・リッチーによって、ナンシーの墓石にシドの遺灰が撒かれたそうです。