復活!いい話スレ(ToT)

PFCcV81F

初期カオス帝国にあったいい話、感動スレが復活!
文字通りいい話、感動する話、泣ける話や話題等の実話やコピペ等のスレッド( ;∀;)
  • [37] SS 2017/01/13 02:15

    PFCcV81F
    20年愛用のテプラの遺言?「11-ヌセラチ」という謎のテプラ語を残して昇天……


     キングジムのラベルライター「テプラ」がその役目を終えようとした時、「テプラ語」でお別れのメッセージを吐き出した……? 実際にこうしたことは起きるのでしょうか? なぜこんなことが起きたのでしょうか? 無粋ながらキングジムに聞いてみました。


     テプラを20年愛用していた広岡祐さんが9日、液晶がダウンしたテプラから「11-ヌセラチ」という“お別れのメッセージ”が吐き出されたとツイート。「テプラの星に帰るらしい。さようなら、長い間ありがとう」とのツイートにあるように、長年愛用したモノへの優しい気持ちが込められていたこともありたちまち拡散し、「切ない」「同じ機種を使っていた」と反響が寄せられています。キングジムの公式Twitterアカウントもリプを返す形で、「『テプラ』に代わって感謝申し上げます」と投稿しています。テプラ、愛されています。

     広岡さんが愛用した「テプラ」はSR606という、現在のカートリッジの規格になった際に発売された最初の機種。1992年に発売されています。長年使用されたものにはさまざまな故障が起きるものですが、こうした現象は見たことがないとキングジムの担当者。「勝手に文字列を排出することもないですし、遺言を残す機能もありません」――だそうです。そうか、ないのか……。

     遺言(?)とされている「11-ヌセラチ」ですが、テプラの文字配列から推測するに、右上と左上に偏っています。なにかしらの拍子で文字が打たれた可能性もありますが、推測の域を出ません。ちなみに、担当者によると液晶だけダウンすることもあまり聞かないらしく、やはり詳しく見てみない限りは故障の原因も、なぜ遺言を吐き出したのかも分からないそうです。

     今回の取材に担当者は「1台を長く大切にお使いいただいているのを実際に拝見するのは大変うれしく、本当にメーカー冥利に尽きます」と、20年も現役で使用しているユーザーがいることに感動した様子だったのが印象的でした。長年使ったモノには魂が宿るといわれています。力尽きようとしているテプラが、最後の力で文字を吐き出した可能性もあるかもしれませんよ? そして遺言機能、つけてみませんかキングジムさん。
    イイネ! 返信
  • [36] SS 2017/01/10 13:46

    PFCcV81F
    宮城県内各地で成人式が開かれた8日、東日本大震災で大きな被害を受けた名取市では、震災で犠牲になり、この日成人式を迎えるはずだった子供たちの似顔絵が遺族に贈られた。晴れ着やスーツ姿の大人びた姿に、遺族は「こんなふうに20歳になっていたんだろうな」と涙ぐんだ。

     那覇市のイラストレーター、森琢磨さん(43)が、震災時に名取市立閖上中学2年生だった4人の成人した姿を、写真を元に想像して描いた。森さんは震災半年後から被災地に通い、被災者の似顔絵を描き続けてきた。震災で子供を亡くした遺族の求めで、生前の写真から似顔絵を描いたところ、涙を流して喜ばれたことから、犠牲者の絵も描くようになった。これまで似顔絵を描いた人は約7600人に上る。

     この日は閖上中の遺族が集う「閖上の記憶」で、森さんが遺族に似顔絵を手渡した。遺族は表情をゆるめ、目頭を押さえながら似顔絵に見入った。

     次男駿さん(当時14歳)を亡くした大川ゆかりさん(48)は「いつも思い出すのは14歳の姿のまま。こんな20歳になっていたんだろうな」。長女和海(かずみ)さん(当時14歳)を亡くした佐々木清和さん(50)は、和海さんが好きだったピンクの晴れ着姿を描いてもらった。「『あなたが生きていればこんなふうに成人していたんじゃない』と娘に声をかけたい」と話した。

     森さんは「ご遺族は成長した子供たちの姿を見たかったはず。似顔絵でだけでも、成長した姿を見てもらえれば」と願った。
    イイネ! 返信
  • [35] SS 2017/01/02 13:44

    PFCcV81F
    「猫の贈りもの忘れない」と題した新聞投稿が、ネット上で話題になっています。2014年1月3日に掲載された文章で、いずれも東京都内に住んでいながらなかなか会うことのなかった家族が、飼い猫の死をきっかけに集まり、思い出を語り合いながら一晩を過ごしたという内容です。ツイッター上では「涙が止まりませんでした」「実家の猫を思い出しました」といった声が寄せられています。あれから3年が経ちましたが、家族はどう過ごしているのでしょうか? 投稿した女性に会って話を聞きました。


     「友達から『インターネット上で話題になっているよ』ってメールが送られてきて、びっくりしたんですよ」。そう話すのは、東京都清瀬市に住む吉田幸子さん(75)です。メールを印刷した紙を手に、照れくさそうに笑います。

     新聞投稿に登場する猫は「たら」。1993年、中学生だった次男が夏祭りの夜に、段ボール箱の中に捨てられていたところを連れ帰ったのが始まりでした。

     自宅には柴犬の「こたろう」がいたため、吉田さんは飼うかどうか迷ったそうです。それでも、反抗期だった次男の「全責任を俺が負う」という言葉を聞いて決心しました。

     20年が経った2013年12月2日、たらが死にました。半月ほど落ち込み続けたという吉田さんですが、その時に感じた思いを残そうとペンをとり、朝日新聞の読者投稿欄「ひととき」に投稿しました。
    新聞投稿の内容はこちら

     2014年1月3日に掲載された文章は以下の通りです。

     ◇ ◇ ◇

     うちには3人の子がいる。看護師やホテル勤務なので、正月でも一堂には集まらない。この前そろったのはいつ? 何のとき?とまず最初に確認するほど、2、3年ぶりの再会はざら。みな東京在住なのに。

     年末、20年余り共に暮らした猫が逝った。次男が中学生のころ、夏まつりの夜に拾ってきた子。最後の数日はお水だけ飲んでいた。可愛がってくれた私の友人が会いに来た。子どもたちも駆けつけた。

     長女が来ると最後の力を振り絞り、お帰り、と玄関で迎えた。最も疎遠気味だった長男に最後の水を飲ませてもらうと、びっくりするほどきれいな目を見開き、さよならをして逝った。

     その夜、お気に入りのカゴにまーるくなって眠りについた子を囲み、夫と私、子どもの5人がそれぞれ思い出を語り合った。悲しくも楽しい時間だった。この子の20年間は、我が家の歴史だ。子どもらの青春、結婚、夫の脳内出血と車いす生活。みーんな見てきた子との別れに、山ほどの涙と別れの言葉を浴びせた。

     このお正月もそろわない家族。あの一夜は、あの子からの最後の贈りものだった。可愛かったよ。いい子だったよ。忘れないよ。
    次男が差し出した封筒

     看取った日の夕方、数年ぶりに5人が集まりました。

     家に来た時は手のひらにのるほど小さかったこと。こたろうに付き添うようにして一緒に散歩していたこと。血尿の後で行方がわからなくなり、探し回った末に近くの畑の穴の中でうずくまっているのを見つけた日のこと……。夜が更けるまで思い出話は続きました。

     子どもたちが「親が死んでも、こんなに泣かないよね」と冗談を言うと、吉田さんは「私たちのときも少しは泣いてよね」と返して笑い合ったそうです。

     「たらには助けられてばかりでした。家族の間に入るクッションみたいな存在。ケンカが始まっても、たらを膝の上に乗せてたら大きな声で怒鳴ることもできないじゃないですか」

     弔った後、中学生のころに「全責任を俺が負う」と宣言した次男が、吉田さんに封筒を差し出しました。「20年分には足りないかもしれないけど……」と言いながら、かかった治療費などに充ててほしいと現金を入れていました。

     「ちゃんと覚えてたんですね。その気持ちがうれしくて」と吉田さん。
    その後、家族で会うことは?

     たらを看取ってから3年が過ぎました。あれから家族で顔を合わせる機会はあったのでしょうか?

     「2016年の1月に、久しぶりに集まりました。入院していた夫の誕生日のお祝いをしようと次男が言い出して、外出許可をもらって食事会をしたんです。孫たちも集まって、にぎやかな会になりました」

     吉田さんの家には今、黒猫「あぽろ」がいます。たらが死んでから半年以上が経ったころ、動物病院で里親募集の貼り紙を見つけて、一緒に暮らすことを決めたそうです。

     「たらが人なつっこくて、刺し身が大好きだったのとは対照的。とってもビビリで、ケーキやチーズが好き。私たちにとって大切な家族です」
    「どこの家でも同じ」

     昨年12月23日、吉田さんの投稿が載った新聞の切り抜き画像がツイッターに投稿され、多くの人の目に触れました。

     「泣いてしまいましたが、とてもあたたかな気持ちです」「うちの黒猫を思い出しました」といった声が寄せられ、ブログで紹介する人たちも。そのことを知った吉田さんの友人が、「すごいわね」と知らせてくれたそうです。

     昔の投稿が話題になったことについて、吉田さんは「きっと猫や犬を飼っていれば、どこの家でも同じだと思います。たらちゃん、ありがとうね」と話します。

     3年遅れで届いた、たらからの「もう一つの贈り物」。話の途中で吉田さんは、何度も昔を思い出しながら目元をぬぐっていました。
    イイネ! 返信
  • [34] SS 2016/12/30 02:52

    PFCcV81F
    母の死に気づかず 子供3人が遺体に寄り添い3日間過ごす(スペイン)
    クリスマス休暇にもかかわらず、言葉ひとつ残すことなく突然天に召されていった母親。3人の子供たちはベッドで横になったままの母親を眠り続けているものと思い、3日にわたり食事もとらずにそのそばに寄り添っていた。悲しいニュースを英メディア『mirror.co.uk』が伝えている。

    スペインのマヨルカ島にあるアパートで20日に保護された5歳、10歳、11歳(男児2名、女児1名)の子供たち。彼らはベッドで横になったまま動かない母親が、まさか亡くなったとは思っていなかった。早く起きてくれるよう願いながらその遺体に寄り添うこと3日間。しかし飲まず食わずの状態が続いたことから脱水症状を起こし、病院に運ばれたという。

    家族が暮らしていたアパートの部屋には食べ物や飲料用の水がほとんど残っておらず、ついに外に出て公園に向かい、見知らぬ人に助けを求めたという子供たち。「ママは?」の問いに「ベッドで寝ていて目を開けない」と答えたため、庭師をしている男性が驚いて彼らのアパートへ向かった。男性が発見したとき、40歳だという母親の呼吸は完全に停止していた。

    ナイジェリアからの移民で身寄りはなく、近隣住民が子供たちにジュース、水、食べ物を与えながら警察や救急車の到着を待った。特に5歳児が体調不良を訴えており、子供たちは病院に搬送されたが、母親が死亡したという事実を知って激しいショックを受けたという。さらに父親の所在は一向につかめず、退院後は行政による児童保護施設に引き取られた。母親の死因に事件性はなく、検死ではおそらく自然死と結論づけられるであろうという。
    イイネ! 返信
  • [33] SS 2016/12/28 03:07

    PFCcV81F
    読売テレビの清水健アナウンサー(40)が来年1月末で退社することが25日、分かった。その後はアナウンサーとしての仕事からは完全に離れ、講演活動に重点を置く意向という。昨年2月に愛妻を29歳の若さで亡くし、現在は2歳の息子を抱えながら夕方のニュース番組「かんさい情報ネットten.」(月〜金曜後4・47)のメインキャスターを担当。週末は講演活動も行うなど多忙な日々を送っており、関係者によると以前から周囲に「子供との時間を大切にしたい」と漏らしていた。


     関西の夕方の顔が電撃的に退職を決めた。親しい関係者によると、清水アナは今月上旬に退職願を提出。会社サイドからは何度も慰留されたが本人の決意は固く、来年1月末での退社が決まったという。

     複数の関係者によると今後、フリーアナウンサーとして活動する意思はなく、現在も行っているがん患者やその家族に向けた講演活動に重きを置きたいよう。加えて、長男との時間を大切にしたいという思いも大きかったようだ。

     清水アナは、スタイリストだった奈緒さんと13年5月に結婚。奈緒さんは翌年4月に妊娠が分かったが直後に乳がんが見つかり、治療を続けながら長男を出産したが、悪性のがんで進行が早く、昨年2月に息を引き取った。その間、清水アナは亡くなる直前の約10日間を除いて看病しながら番組出演を続けていた。

     今年2月には亡き妻への思いをつづった著書「112日間のママ」(小学館)を発表。わずか1カ月で10万部を突破するなど反響はすさまじく、直後から医療施設や市町村からの講演依頼が殺到した。「こんな僕でも役に立てることがあれば何でもやりたい」と取材で答えたこともあり、今ではほぼ毎週末を講演にあて、休日のない状態が続いている。

     友人によると、最近では以前より20キロ近く体重も落ち、体も悲鳴を上げているようだ。

     著書の印税を、がんの新薬開発や難病対策に取り組む団体などに寄付、助成するための基金も設立。そのような活動から、これまで何度も政治家への転身が伝えられることがあった。今回、退社にあたって政界進出を考える向きもあるが、近い関係者は「今は基金の方が大事なので頭にないのでは」と話した。
    イイネ! 返信
  • [32] SS 2016/12/26 03:25

    PFCcV81F
    クリスマス前はプレゼントの準備やパーティなどでなにかと出費がかさむものだ。そこへ出産予定も重なると、仕事を持つ女性にとっては収入面が不安になる人もいるだろう。パートナーの収入に頼ることができず、出産ギリギリまで働かざるを得ない状況にあった女性ウエイトレスに、このほど素敵なクリスマスプレゼントが舞い込んだ。

    米アリゾナ州フェニックスのショッピングモール「ショップス・アット・ノーテラ」にあるレストランバー「Pita Jungle(ピタ・ジャングル)」で、ウエイトレス兼バーテンダーをして7年になるサラ・クラークさんは、1月8日の出産予定日を控えた妊娠9か月の妊婦だ。

    大きなお腹を抱えての給仕は辛い。しかしサラさんには働かなければならない事情があった。パートナーが膝を痛めていて手術を控えていたこと、そしてサラさんもまもなく産休に入るため、働けるうちに働いて家賃などの生活費を稼いでおかなければならなかったのだ。

    12月17日、いつものように仕事をしていたサラさんは以前にも見かけたことがある女性客と言葉を交わした。その女性客も妊娠しており互いの妊婦生活について話をした後、サラさんは出産ギリギリまで仕事をしなければならない状況をつい伝えてしまったそうだ。

    その女性客が去った後、サラさんは900ドル(約10万円)ものチップをもらったことに気付き、驚くことになる。飲食代は61.30ドル(約7200円)であったにもかかわらず、約15倍ものチップを上乗せしてくれたのだ。

    そしてレシートにはこのようなメッセージが記されていたという。

    「これは神様からのお金です。神が私たちに、あなたに渡すようにとくれたのです。神のご加護がありますように。」

    サラさんは感動し涙を抑えることができなかったそうで、CNN系列のニュース『FOX31』に以下のように話している。

    「どのお客様も親切ですが、ここまでしてくれた人は初めてです。900ドルというのは大金です。いつも誰かが親切な行為をすることは素晴らしいと思っていました。私も機会があれば、必ず誰かに親切にしたいです。」
    イイネ! 返信
  • [31] SS 2016/12/24 11:25

    PFCcV81F
    良い話っつうか多分明日までしかやらないだろうけどアップル社のCMは実に素晴らしい!グッとくるね、泣くですよw
    フランケンぽいやつ。
    たまにある個人的に好き過ぎるCMっすね。
    イイネ! 返信
  • [30] SS 2016/12/23 11:42

    PFCcV81F
    たけし軍団良い話4

    ガダルカナル・タカの本より
    カラオケ・スナックを経営してくすぶっていたところを、たけしによって拾われ軍団入りしたのである。
    きっかけは、軍団の野球チームに助っ人として参加したことだった。
    そうした具合に、どこにも行き場のなくなった芸人たち、芸人をやらなければ人生を踏み外していたかもしれないくすぶり者たちを、たけしは何人も拾い上げ、若い衆として引き受けている。
    「そっか、じゃあ呼んでやれよ」って話になってたんだと思う。あとあと、たけしさんのことを見てると、必ずそういう下調べがあって、いろんな人に手を差し伸べてあげてるから。だから俺らに対しても絶対にそうだろうなって…
    イイネ! 返信
  • [29] SS 2016/12/22 00:56

    PFCcV81F
    たけし軍団良い話3

    たけし軍団を創設した初期は数多く入団し、退団して出入りが激しかった
    そんな頃、たけしの金庫からはちょくちょくお金が無くなっていた。
    勿論それは弟子である軍団のメンバーが取った事に間違いは無かった。
    しかしたけしはそれを知っても誰も責めなかったらしい 。
    軍団上層部(そのまんま東・ガダルカナルタカ等)が責任を感じ、犯人探しをしようとしたらしいのだが、被害者のはずのたけしは
    「そんな事する暇あるなら芸を磨け!」と逆に叱咤したらしい。
    イイネ! 返信
  • [28] SS 2016/12/21 00:29

    PFCcV81F
    たけし軍団良い話2

    Friday襲撃事件で送検されている時
    「悪かったな。お前らには感謝してるぜ…」
    後にも先にもたけしさんから感謝してるなんて言われたのは、そのときだけだ。もう芸能界では仕事が無いだろうと思っていた。
    そして、たけしさんは続けて、
    「お前らのことは土方をしてでも一生、面倒見るからよ」
    胸がジーンとなった。その言葉だけで俺らは全員、
    「もう、どうなってもいい」
    本気でそう思った。
    イイネ! 返信
  • [27] SS 2016/12/20 02:00

    PFCcV81F
    たけし軍団良い話


    たけし軍団のメンバーに不幸があった。その葬儀の席上での出来事について、軍団と親しいテレビ関係者が語る。
    「地方で行われた葬儀には、亡くなったメンバーと親しかった、軍団ではない芸人も駆けつけていた。大広間でその姿を見つけるや、たけしさんが声をかけてきたといいます。なんと座っていた座布団を外すや、『弟子のためにありがとうございます』と畳におでこをつけて頭を下げたそうです。たけしさんにそこまでされたその芸人は、『感動した。軍団のみんながこの人に付いていくのは当然だ』としみじみ語っていました」
    イイネ! 返信
  • [26] SS 2016/12/19 00:28

    PFCcV81F
    12日、スコットランドのダンファームリンで、青い風船にくくりつけられた1通の手紙が発見された。犬の散歩中にこの手紙を見つけたスチュアート・マッコールさんは、手紙の差出人を探している。

    「パパ、こんにちは。パパにすごく会いたい、ということが言いたくて、あと、ひとつニュースがあって手紙を書いています。もちろんパパは知っていると思うけど、僕は里親と暮らすことになりました。ママが病気で、僕は月曜日に耳が聞こえなくなっちゃったんだ。明日、出発します。学校とパパが本当に恋しいです。パパは天国で安全に暮らしていますか? 僕の夢とクリスマスリストを書いておくね。僕の夢は、パパがノートを僕の枕の下に入れてくれること。クリスマスに欲しいものは、スタッズつきのブーツ、アストロズ、リバウンダーネット、新しいプレミアリーグのボール、レアルマドリッドのキット、そしてルービックキューブです。バイバイ、パパ。愛してるよ」

    ノートから1枚ちぎったと思われる紙に、ハートマークをたくさんちりばめながら書かれた亡き父への手紙。差出人の名前がないため性別はわからないが、プレゼントリストから男児であると推定して一人称を「僕」とした。

    マッコールさんはこの手紙を公開し、差出人を見つけてくれるよう広く呼びかけている。

    地元のニュースサイト「ダンファームリン・プレス」の取材に、マッコールさんは「これは、看過するにはあまりにも悲しい話です。このようなことを今までしたことはありませんが、こんな辛い時を過ごしているこの人を助けるために、何かをしたいと考えたんです」と語る。「全ての人に関係があります。すでにこの贈り物を買うために寄付したいとの申し出も何件かいただいているんですよ。でも今はまず、この子を見つけ出すことが先決です。どうやらサッカー好きのようですね」。

    両親と離ればなれになってしまったこの差出人は果たして見つかるのだろうか。続報があればまたお伝えする。
    イイネ! 返信
  • [25] SS 2016/12/17 13:18

    PFCcV81F
     2006年2月1日、京都市伏見区の桂川の遊歩道で、区内の無職の長男(事件当時54歳)が、認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害、自身も死のうとしたが未遂に終わった「京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件」をご存じだろうか。

     一家は両親と息子の3人家族だった。1995年、父親が病死後、母親が認知症を発症。症状は徐々に進み、10年後には週の3〜4日は夜間に寝付かなくなり、徘徊して警察に保護されるようにもなった。長男はどうにか続けていた仕事も休職して介護にあたり、収入が無くなったことから生活保護を申請したが、「休職」を理由に認められなかった。

     母親の症状がさらに進み、止む無く退職。再度の生活保護の相談も失業保険を理由に受け入れられなかった。母親の介護サービスの利用料や生活費も切り詰めたが、カードローンを利用してもアパートの家賃などが払えなくなった。長男は母親との心中を考えるようになる。

     そして2006年真冬のその日、手元のわずかな小銭を使ってコンビニでいつものパンとジュースを購入。母親との最後の食事を済ませ、思い出のある場所を見せておこうと母親の車椅子を押しながら河原町界隈を歩く。やがて死に場所を探して河川敷へと向かった。

    「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」という息子の力ない声に、母親は「そうか、あかんのか」とつぶやく。そして「一緒やで。お前と一緒や」と言うと、傍ですすり泣く息子にさらに続けて語った。「こっちに来い。お前はわしの子や。わしがやったる」。
     その言葉で心を決めた長男は、母親の首を絞めるなどで殺害。自分も包丁で自らを切りつけて、さらに近くの木で首を吊ろうと、巻きつけたロープがほどけてしまったところで意識を失った。それから約2時間後の午前8時ごろ、通行人が2人を発見し、長男だけが命を取り留めた。

     京都地裁は2006年7月、長男に懲役2年6月、執行猶予3年(求刑は懲役3年)を言い渡した。

     裁判では検察官が、長男が献身的な介護を続けながら、金銭的に追い詰められていった過程を述べた。殺害時の2人のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介すると、目を赤くした裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

     判決を言い渡した後、裁判官は「裁かれているのは被告だけではない。介護制度や生活保護のあり方も問われている」と長男に同情した。そして「お母さんのためにも、幸せに生きていくように努力してください」との言葉には、長男が「ありがとうございます」と応え、涙をぬぐった。


     ――この事件が一地方ニュースに留まらず、ネットなども通じて「地裁が泣いた悲しい事件」として日本中に知られることになる。親子の境遇や長男に同情する声や温情判決に賛同する声などが広がった。

     それから約10年後の2015年。毎日新聞大阪社会部の記者が、介護殺人に関するシリーズ記事の一環としてこの長男への取材を試みた。しかし弁護にあたった弁護士も行方を知らず、数少ない親族を探し出して訪ねると、彼はすでに亡き人になっていた。

     事件の後の足跡について親族は口が重く、なぜ亡くなったのかも不明のまま。行き詰った末に探し当てた長男の知人という人に彼の死を告げると、絶句して、判決後に長男が落ち着いた先の住所を告げた。

     やがて判明した死因は自殺だった。
     琵琶湖大橋から身を投げたという。所持金は数百円。「一緒に焼いて欲しい」というメモを添えた母親と自分のへその緒が、身につけていた小さなポーチから見つかった。地獄を味わった彼の言葉やその後の人生が、在宅介護に限界を感じ、絶望している人への何らかの助けになるのではないか。そう考えて必死に動いた記者を待っていた、悲しすぎる結末だった。

     厚労省によると、要介護(要支援)認定者数は620万人。要介護者を抱える家族が増える一方、後を絶たない介護苦による悲しい殺人事件。なぜ悲劇は繰り返されるのか。どうすれば食い止めることができるのだろうか……。
    イイネ! 返信
  • [24] SS 2016/12/16 06:40

    PFCcV81F
     2016年1月10日にジャーナリスト竹田圭吾さんが亡くなってまもなく一周忌。
     竹田さんの妻・裕子さんが二人の出会いから、竹田さんの知られざる家庭での素顔、治療と最後の日々を著書『一〇〇万回言っても、言い足りないけど ジャーナリスト竹田圭吾を見送って』で明かしている。
    ■夫を支え、再発しても「ポジティブ・シンキング」

     2013年秋、皮膚や目に表れた黄疸に気づいて受診した内科で、膵臓がんが見つかった。裕子さんは告知を受けた際の竹田さんの様子をこう綴る。(以下、《 》内は本書より)

    《パーティションで区切られただけの外来診察室で、内科医は少し考えながら言った。
    「詳しい検査をしないとわからないですが、ステージ3の可能性が高いです」
     普段からあまり表情を変えることのない圭吾さんは、このときも顔色を変えなかった。
     圭吾さんが自分から「ステージで言えばどのくらいか」と尋ねたのだ。》

     その後、検査入院を経て、手術のために再度入院。9時間かかった手術は成功した。退院は予定より早く、体力も回復し仕事を再開。再発が多いと言われる術後半年を無事クリアし、経過は良好と思われたが、2014年8月、再発が見つかる。

    《表情にも態度にも全く出ていなかったが、本人は相当なショックを受けているはず。
     私は主治医に言った。
    「本来なら、2週間くらい後にするはずだった検査を前倒ししてもらって、そのおかげで早く見つかってよかったです。早く見つかれば、その分早く治療できるってことですから」
    「究極のポジティブ・シンキング!」
     すかさず圭吾さんが、あきれたような大きい声で言ったのを覚えている。》
    ■覚悟と準備の日々

     それまでは、「2人の子どもも一緒に、家族全員揃っての方が楽しい」と、2人きりではめったに出かけることのなかった竹田夫妻。

    《その状況が圭吾さんの病気で変わった。
     お互い言葉にはしなかったけれど、「膵臓がん」と診断されたときから、少しずつ、本当に少しずつ、いろんな覚悟と心の準備をしてきたと思う。》

     2人は、時間を見つけては、京都や高野山へ出かけた。

    《高野山と比叡山で、私たちはどのくらいの回数、どのくらいの時間、手を合わせたのだろう。(中略)
     圭吾さんがどんなことを念じていたかは、わからない。
     薬師如来さまの前に座るたび、私がお願いしたことはひとつだった。
    「圭吾さんの病気を治してくださいなんて贅沢なことは言いません。ただ少しでも長く、一緒にいられるようにしてください」》

     しかし、しだいに体力が落ち、抗がん剤が効かなくなってしまう。

    《「最期のときは家で迎えさせてあげたい」
     私はそう決めていた。
     冷静沈着(そう)な竹田圭吾さんは、ちょっと怖がりだ。
     映画館で、大きな音や迫力いっぱいの画が突然出てきたりする場面では、人一倍大きな体を、人一倍飛び上がらせ、隣に座っている私を映画以上に驚かせた。》

     亡くなる6日前までラジオ番組に出演した竹田さんは、病気の発覚からわずか2年3か月、51歳で亡くなった。
    ■手術前に竹田さんが書いていた手紙

    働き盛り、51歳。夫は、1通の手紙を遺して逝った――。最期の日々を綴った感動の手記。『一〇〇万回言っても、言い足りないけど ジャーナリスト竹田圭吾を見送って』
     それから4か月。仕事関係の書類を探していた裕子さんは、竹田さんが2013年11月手術の前夜に書いた手紙を偶然見つけた。そこには、裕子さんへの深い感謝が綴られていた。

    《ありがとう、ありがとう…一〇〇万回言っても言い足りないけど。感謝しています。またいつかどこかで会おうね。》

     裕子さんの目に、告知以来、竹田さんの前では決して見せなかった涙があふれた。

    《手術の前日、これをどんな思いで書いたのかを思うと私はどうしたらよいのかわからなくなる。
     やっぱり眠れないままひとりベッドの上にいたのだろう。暗い病室で朝を待つのはきっと苦しかったに違いない。
     だめだ、何度読み返しても涙があふれてくる。》
    イイネ! 返信
  • [23] SS 2016/12/07 11:10

    PFCcV81F
    テネシー州に住む22歳のアリエル・ディジリーがFacebookに投稿した文章が広く反響を呼んでいる。

    アリエルはコミュニティサービスの事務所に勤め、恋人のクインは中古車ディーラーで働いている。生活に余裕はなく、倹約に倹約を重ねる毎日だ。2年間の交際を経て、2人は結婚を決意。「親友と結婚できるだけで幸せだから指輪は要らない」とアリエルは言ったが、夫は違った。クインはアリエルに指輪を贈るために、密かに貯金していたのだ。

    ジュエリー店で2人が選んだのは、シルバーとキュービックジルコニアのリングだった。値段は130ドル(約13,700円)。心躍らせて会計を待っている間、店員のつぶやきが耳に入ってしまった。

    「これを婚約指輪として買うなんて信じられる? みじめすぎるわ」

    クインの顔はみるみる曇り、がっくりと肩を落としてしまった。そして「本当に君はこれで幸せなの? これでいいの?」と不安そうに聞いてきたという。アリエルはその女性店員に「重要なのは指輪そのものじゃない。それを買う、という愛こそが大切なのよ」と反論し、指輪を受け取ってその場を去った。

    アリエルは疑問を投げかける。

    「私達の国はいつから、男性が3,000ドル以上の派手な指輪を買わないと愛を伝えられないような国になってしまったんでしょう。指輪は本当に素敵で、あのときの気持ちは最高だった。他の人たちの体験に勝るとも劣らないものだった。なぜモノが愛と同一視されるのでしょうか。私の夫は、宝石を買う余裕がなかったから私に嫌われるのではないかと考えました。私が欲しい指輪を買えなかったから、私の愛が薄れるのではないかと恐れました。世間がこのようにしてしまったんです。本当に悲しいことです。でも、裁判所での結婚、130ドルの指輪、夫からの精一杯の愛情は、想像していたよりもずっと幸せなんですよ」

    彼女の“指輪物語”は多くの人の共感を呼び、65,000回を超えるリアクションを得ている。「なんて素敵なストーリー」「身の丈に合うものを選択したことはとても賢い」といったコメントや、「私の指輪も見て」「私のは25ドルだったのよ」とシルバーやジルコニアの指輪の写真が次々寄せられている。
    イイネ! 返信
  • [22] SS 2016/10/22 07:20

    PFCcV81F
    関西中心に東名阪で活動するヴィジュアル系バンド『HOLYCLOCK』ボーカルの龍太朗が今年(2016年)1月、自身のブログにこんな記事をアップした。

    「母を探しています。」

     当時このブログは話題となり、ネットで大拡散された。編集部でも当時、龍太朗にインタビューをして紹介したが、読者からは「その後」を知りたいという声が継続的に多数よせられていた。

     そこで本稿では生き別れの母親を探していた『HOLYCLOCK』龍太朗と母との再会までの全てを報告する。


    ■母と別れてからは「生きる」のに精一杯 

     龍太朗は4歳の時に父母の離婚で母と生き別れた。その後の運命は過酷の一言。父からの言葉や力での虐待、さらには酒におぼれた父が目の前で自殺を図った事もあった。自殺は未遂に終わったが、その後迎え入れた継母からも虐待を受け、継母と父が離婚して父方の祖母の家に身を寄せるまでは、着る物から食べる物にまで事欠く日々だったという。


     母と別れてからの龍太朗は「ただ生きる」だけで精一杯だった。しかし、祖母の家に身を寄せてからは少しずつ自分の気持ちに余裕が出てきた。時たま母の事は思い出すけど、もう会えない現実。そんな時「音楽」との出会いが彼の心を救った。

     打ち込める「音楽」と出会い数年。ただがむしゃらに走り続ける中で、心を許せる仲間ができ、支えてくれる人たちにも巡り会えた。そして念願のCDデビュー。ヴィジュアル系バンド『HOLYCLOCK』の龍太朗としてステージに立っていた。

     そんなある日、CDデビューと同じく念願だった「ワンマンライブ」が決定した。日付は自分の誕生日である4月10日の翌日。同時に思い出されたのが、「母」の事だった。彼はいつの頃からか誕生日を迎える度に、「母に謝りたい」と思うようになっていた。

     父母が離婚する時、突然両親から「どっちについていく?」と聞かれた。いたずら盛りでお母さんによく怒られていた龍太朗は、思わず「お父さん」と答えてしまった。彼はその時の事をずっと悔やんでいた。大人になり繰り返しよぎるのが「母を追い出した決定打は俺の選択なんだ」という強い後悔。そして「自分が救われたいだけなのかもしれないけど、一言母に謝りたい。」という思い。

     そこで誕生日翌日の4月11日のライブに母を招待したいと考えた。しかし連絡先は分からない。戸籍をたどろうとも思ったが、「母に新しい家庭があったなら」「向こうは迷惑かも」そんな遠慮もよぎり、ネットの力に思いを託して母の意思で名乗り出てくれる事に望みをかけた。

    ■それでも「母に一目会いたい」

     そして訪れた4月11日。お母さんがライブ会場に現れることはなかった。

     インタビューの中で龍太朗は記者からの「もしこれで会えなかったらどうしますか?」という問いに、「それでも母に一目会いたい」と答えていた。4月11日に再会できずしばらく落ち込みはしたけれど、ここでも「やはり会いたい」と強く思ったという。そこで再び探し始めようとしていた矢先の出来事。

     その日は、東京でのライブを終え、関西の自宅に戻った翌日。久方ぶりの一日オフだったが普段なら家で過ごすところ、オフの日には珍しく『HOLYCLOCK』のメンバーで集まる事になっていた。集合場所にたどり着き挨拶を交わす龍太朗。みんなで雑談混じりで話していると、一本の電話が入った。

     「おばあちゃんだけど今いい?」

     かかってきたのは父方の祖母。龍太朗の“育ての母”でもある。祖母からの電話を受け話を聞いていると、龍太朗の事を母が探しており、しかもこれから祖母のもとまで会いに来るという。ネットで話題になった事は全く知らなかったらしく、母は母で探していたそうだ。

     「こういう事情なんだけど、龍太朗の番号教えてもいい?」

     あまりの突然の出来事にどうしていいか分からず龍太朗は言葉を失った。しかし、異変を察したメンバーらが強引に話を聞き出し「番号どころか今行かなきゃ駄目だ」と強く背中を押し、待ち合わせ場所まで連れて行ってくれた。

     メンバーに見送られ入った喫茶店。その席には母らしき女性と付き添いらしい女性が座っていた。

    ■一気に動き出した再会までの道

     同席していた女性は、それまで存在すら知らなかった「妹」だった。初めて会うにもかかわらず妹は「お母さんがずっと持ってた写真で知ってた」「会いたかった」と涙ながらに話してくれた。

     後のインタビューで龍太朗は「妹が突然できて、しかも姪っ子までいました」と笑いながら話してくれた。どうやら嬉しい反面、まさかの妹の出現。しかも「お兄ちゃん」と呼ばれた事がかなり照れくさかったらしい。

     そして今回再会につながったのは、母方の祖母。龍太朗の記憶にぼんやり残る「やさしいおばあちゃん」の言葉がきっかけだった。
     母方の祖母は体調をくずししばらく前から入院していた。状況は芳しくなく、ついに医師から余命一ヶ月を宣告された。日に日に曖昧になって行く祖母の意識。今日の事も昨日の事も分からない状態。しかしそんな中、突然こんな事を言い出した。

     「龍太朗 龍太朗」

     それを聞いた母は、それまで我慢していた龍太朗に会いたいという気持ちが押さえきれなくなった。離婚で置いて来た息子。別れてからずっとずっと、再婚しても何があっても決して忘れる事はなかった。後悔ばかりしていた。そんな中での余命幾ばくもない自分にとっては母からの言葉。龍太朗に対する思いが一気にあふれ出した。

     「今は何しているだろうか」
     「病気になっていないか」
     「もしそうなら私が面倒をみたい、今度こそ支えたい」

     母も龍太朗の事は決して忘れてはいなかった。ただこれまで会わなかったのは長すぎる時間と、息子を思っての躊躇いから。余命わずかな自分の母の言葉がその全てを取り払った。

     ただ長すぎる年月の間に龍太朗との連絡先は失われていた。でも迫り来る自分の母の命の期限。戸籍をたどろう、興信所に頼もうとしていたところ、元夫の親戚が店をやっているのを思い出した。

     わずかな記憶を頼りにそのお店を探し当てたところ、お店は健在、しかも元夫の母(龍太朗の父方の祖母で育ての母)とは年賀状のやりとりが今でもあるという。そこで詳しい事情を説明し、連絡をつけてもらったところ、元夫の母は「会ってもかまわない」と。ここからオフの日の龍太朗の出来事につながる。

    ■再会の後の切ない別れ

     「妹が母と私の間に入り奮闘してくれてます」

     母と再会した龍太朗はすぐ記者にも連絡をくれた。母に会えた事、妹がいてさらに姪ができておりいつの間にか「おじさん」にもなっていた事。妹からLINEが届く事、そして上記の通り、まだぎくしゃくしてしまう母との間に妹が入って奮闘してくれている事など楽しげに語ってくれた。普段の龍太朗は、自分の感情を押し殺したようなところがある。でもお母さんとの再会でそれまで隠れていた一面が一気に飛び出してきたような雰囲気だった。

     この変化を嬉しく思いつつ、数日中には再会のきっかけとなった母方の祖母に会いに行くというので「詳しい話はとりあえず来週に」とその日の話は終了。

     ところがその直後に、龍太朗は高熱を出してしまった。元々風邪気味だったというが、このところよく動いていた事で疲れとともに風邪が一気に悪化。肺炎となり10日間も入院する羽目になった。

     「祖母には会えませんでした」

     退院からしばらくして記者は龍太朗と話をしていた。龍太朗によると、母との再会のわずか3日後に高熱を出し、祖母と会う約束だった10月3日に入院。もちろん、母と妹がすぐに飛んできて見舞ってくれたが、すぐ会えると思っていた祖母はその日の晩に龍太朗の顔を見ることなく静かに息を引き取ったという。

     名前を呼び続けてくれた祖母には結局会えずじまいとなってしまったが、医師の許可を得て葬儀に何とか参列する事ができ、棺に入った祖母とは再会する事ができたそうだ。……が、そこに待ち受けていたのは、棺に入った祖母だけでなく沢山の親戚達。皆一様に龍太朗の帰りを喜び、中には龍太朗を見て涙ぐむ人まで。

     「今は親戚の顔と名前を覚えるのに必死です」

     一気に沢山の人に会い、そして自分は覚えてないものの相手は覚えてくれていたりで名前と顔、そして記憶が一致せず今は少々「嬉しい悲鳴」をあげているという。

    ■もどかしすぎる……

     その後の親子関係についてはまだ「ぎくしゃく」しているとの事で、入院中何度か見舞ってくれたり、電話のやりとりもあったりするが、どーしてもまだ「お母さん」と呼べないらしい。

     記者との会話の中では何度も「母」「お母さん」と呼ぶのに、本人を目の前にすると名前で“さん”付けになり、敬語にもなるのだとか。

     「照れたり緊張するんですか?」
     「……はい」

     ネットで母を探し始めた時にも、「もどかしい」と感じていたけど、まさかここまでとは。記者から見た龍太朗は、冷静でしっかりした人物。しかし母に関する事だけは、初恋の人を相手にするような「まわりくどい」「もどかしい」反応を見せることがある。
     でもさすがに今回だけは「いつかはお母さんと呼べるようになりたい」と意気込んでおり、来年4月に予定するワンマンライブには、「今度こそお母さんに来て欲しい」。そう語っていたのがなんだかほほえましかった。

     ちなみにこの頃で一番母に照れたのは「龍太朗のCD買ったよ」と言われた事らしい。さらに再会後に息子の活躍をネットで調べていたお母さんが、前回の編集部記事を目にしてこれまたすぐ連絡してきたという話でも照れていた。一つ言われて一つ喜び、ちょっとした事で照れ、嬉しい悩みを抱え。失われた時間を埋める事はできないが、今後は母であり最大のファンが龍太朗の活躍を全力で応援し新しい思い出を一緒に作ってくれる事だろう。

     はたから見ていてまだまだ「もどかしさ」は沢山あるが、というかたまに話す記者レベルで「もどかしい」と感じているのだから、一緒にいるメンバーらは「よっぽどもどかしかった」んだと思う。
     それを裏付けるように龍太朗は「あの電話の時、一人だったら会いに行っていたか分からない。強く背中を押してくれたメンバーには本当に感謝しています」と語っており、再会の最大の功労者は『HOLYCLOCK』のメンバー、琢弥、薫、やひろだと教えてくれたのが、これまた最後の最後までほほえましかった。

     そんな彼らは今年から来年にかけ東京、大阪、名古屋と各地でのライブが既に複数決定している。大きいイベントだと2016年12月12日のOSAKA RUIDO HOLYCLOCK PRESENTS『闇に散らばる願いの欠片』と、母を招待したいと意気込む2017年4月20日のOSAKA RUIDO HOLYCLOCK ONE MAN 『憧憬と憐憫の流星群』。

     そして、今年6月にはミニアルバム『心象アクアリウム-終焉の輪に残留する砂時計-』をリリースしており、こちらは絶賛発売中。全国CDショップやAmazonでも販売されているので、ヴィジュアル系に覚えのある方、ライブに行けるお近くの方はぜひ彼らの活躍、応援してあげてほしい。

    ▼協力
    HOLYCLOCK
    イイネ! 返信
  • [21] SS 2016/10/18 02:51

    PFCcV81F
    元フジテレビでフリーの本田朋子アナウンサー(33)が24日に放送されるTBS「結婚したら人生劇変!○○の妻たち」(後7・00)に出演。夫で男子プロバスケットボールの五十嵐圭(36)の戦力外通告にもめげず、献身的に支える姿があらわになる。

    【写真】本田朋子アナの夫・五十嵐圭


     昨年は絶好調のシーズンを送りながら、今年5月に三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ名古屋から突如戦力外通告を受けた五十嵐。本田アナはその時の思いを涙ながらに振り返る。「退団を聞いた時はうそでしょ?って感じで。『もううちのチームにはいりません』って言われたようなことじゃないですか。プロ選手だったら仕方のないことなんですけど、ずっとそばで応援していた私にとっては自分が言われたような気持ちになっちゃって…」

     新潟アルビレックスBBからオファーがあり、夫婦は生涯を過ごすつもりで手に入れた名古屋のマンションを引き払い新潟へ。本田アナが雪国生活への不安を抱いていた時、勇気づけてくれたのは父・浩二さんから届いたメールだった。

     「贈る言葉 人間至る所青山あり 父と母 木の上からじっと見ている 以上」

     「人間至る所青山あり」とは、成功するためならどこにでも行って活躍の場を求めよ、という意味。「不幸とか残念なこと、悲しいことっていうんじゃなくて、ポジティブにとらえることは父から教えてもらったと思いますね」と気持ちが晴れたという。

     本田アナは昨年、スポーツのための食事学の基本知識と理論を理解し、食事に生かす知識を身につける「アスリートフードマイスター」の資格を取得。結果を出さなければまた戦力外通告という厳しい立場の夫のため、これまで以上に徹底した食事管理でサポートした。

     五十嵐は「妻と結婚して一緒に暮らすようになって、ここ2〜3年は大きなけがもなくて、いいコンディションで。特にシーズン中ですね。シーズン中体調をうまく維持できているということがけがにもつながっていないのかなと感じていますね」と妻への感謝を口にした。

     9月に男子プロバスケットボールのBリーグが開幕。夫婦の新天地での挑戦はどのような結果を迎えるのか――。
    イイネ! 返信
  • [20] SS 2016/09/10 00:03

    PFCcV81F
    今は立派な有名女優有村架純さんですが
    「母子家庭」で、「貧乏な過去」を持っています。

    有村架純さんが中学1年生の時に

    両親が「離婚」してしまい有村架純さんは「母子家庭」になってしまって
    経済的に、かなり苦しくなってしまいました。

    新聞やニュースなどで「母子家庭」の、経済的な苦しさが
    報道されることがありますが、厚生労働省の調査では

    「母子家庭の平均年収」は約223万円だそうです。

    実際には、もっと低いかもしれません。


    特に「離婚」が原因で「母子家庭」になった場合に
    「子供の養育費」を毎月、きちんと入れてもらえればいいのですが、厚生労働省の調査では
    現実は「母子家庭」の約8割は養育費を
    払ってもらえていないそうです。

    僕も結婚していますが、男として
    ちょっと考えさせられる問題だと思いました。

    「母子家庭」になってしまった有村架純さんは家計を助けるために、バイトを3つも掛け持ちしてヤバいくらい、アルバイトをしたそうですね。

    有村架純さんは高校1年のころから
    そば店と寿司店で週に6日も
    アルバイトをしていたそうです。
    平日は学校が終わってからと、休日は朝から10時間もアルバイトに明け暮れて、「FLaMme」のオーディションに
    合格して、東京に上京する資金も、自分のアルバイト代で貯めたそうですね。 有村架純さんは、すごく立派だと思います。


    「母子家庭」になってしまって、お母さんを助けようと必死にアルバイトしていた有村架純さんの「貧乏な過去」が泣けてヤバいです。
    女優を志したのも家計を助ける為でした。


    有村架純さんは「貧乏な過去」を持つ「苦労人」で「美人女優」なのですが、「性格美人」として芸能界での評判も非常に、いいそうですね。

    有村架純さんは、女優として成功して
    高額なCMギャラを、もらっても
    お金の有り難さを人一倍、分かっていると思います。
    そんな有村架純さんは、お金を決してムダ遣いせずにこれまで苦労して育ててくれたお母さんのためにきっと「貯金」をしていると、僕は思いますよ。


    有村架純さんには、今後も映画やドラマで活躍してしっかり稼いで、お母さんに親孝行してほしいですね。

    イイネ! 返信
  • [19] SS教授 2016/09/04 20:33

    PFCcV81F
    掲示板からうまれた七夕の奇跡。5年前に預けたクリーニング

    今年の七夕に掲示板(BBS)にこんなトピックスがたてられました。
    5年前に預けたクリーニング、さすがにないですよね。
    引越しのため、荷物の整頓をしていたら五年前に亡くなった母の財布がみつかり、なくなる前日に浴衣をクリーニングにだしたみたいで引き換えレシートがありました。県外なので電話してみたのですが出なくて...潰れたのかな。

    ■次々とアドバイスコメントが寄せられて
    半ば諦めのような気持で投稿されたのかもしれません。でもトピ主さんを励ますような協力的なアドバイスが寄せられました。
    個人のクリーニング屋さんなら特に保管期間設定されてないかもしれないよ。定休日があるところもあるし、一人で店番してて接客中だと電話出ないこともある。チェーン店で働いてたけど、1年で催促の電話してたなー。でも取りに来なくても廃棄はしてなかったよ。
    ご実家の近くの人や地元の知り合いに聞くことはできないの? 私も数年前に同じような事があって、地元の知り合いに聞いてもらって解決したことがありましたよ。
    店舗によるけど、チェーン店なら本店で保管してくれてるだろうけど、知り合いの店舗は3年位以上置いてあった。
    クリーニングの保存期間は五年だったけど、それ以降取りに来ないと処分されちゃうよ。
    トピ主さんも今の状況を話し始めて
    母子家庭で、しかも母親外国人だから親戚もいなくて母の友人も知らない。
    遺品らしい遺品ってほとんどないからあったら嬉しいんだけどな...。
    ちなみに、私は福井でクリーニング屋は滋賀県栗東市。
    2歳児と5ヶ月の赤ちゃんいるから、なかなか気軽に行ける距離じゃないなー。
    浴衣があるんなら取りに行くけど、あるかわからないなら行けない。
    すると…
    ■新たなコメントから急展開!?
    トピ主さんの情報からクリーニング店の近くに住んでいるという方からコメントが!
    ※以下コメント者を掲示板掲載のニックネームで記載します。
    (三角牛乳さん)
    すぐ近くに住んでるよ。なんてクリーニング店? ケーキ屋の通りのとこかな、たぶん。看板は見たことあるけど、まだやってるか覚えてないけど、あとでファミマ行くからついでに見てみるね。
    (トピ主さん)
    ありがとう!グーグルマップでみたらファミマの裏だったよ。お母さんに会いに行く時、インターを降りていつもそのファミマに行ってたからすぐわかった。
    (三角牛乳さん)
    見てきたけど、潰れてると思うよ。看板はまだあるんだけど、シャッターが閉まっててその前に車が2台停まってたよ。開いてた印象ないから潰れていると思ったけど、また通る機会あったら見て見てるね〜。
    (トピ主さん)
    本当に本当にありがとうございます!残念ですが、仕方ないですね
    ただもしかして...とモヤモヤしてたのがとてもすっきりしました。
    ありがとうございます。
    トピ主さんも諦めたその時、また新たな情報が!
    (焼きそばさん)
    私も母を亡くしたので、他人事とは思えなくて、グーグルマップ見ました。このマップが最近のものならの話ですが、木曜日は定休日とガラスに書いてあります。見つかるといいですね。
    (三角牛乳さん)
    本当だ!木曜定休って書いてありますね。また明日見に行ってみます。主さん潰れてるって早とちりかも。ごめんなさい。 調べたら本店は守山市にあるみたいです。HPはあったので、今日はただ定休日だったかも? 私もあそこは頻繁に通るわけじゃなく、いつも閉まっている時に通ってたから印象がなかったのかもしれないです。すいません。
    そして次の日を迎えると
    (三角牛乳さん)
    さっき通ったら開いてた!よかったです。昨日は定休日を潰れたと勘違いしてごめんなさい。浴衣あるといいですね!
    ■五年前預けたお母さんの浴衣がついに発見!
    pixta_11991576_M
    (トピ主さん)
    三角牛乳さん!ありがとうございます!電話つながりました!
    そしてありました!泣きそうです(´;ω;`)
    しかも実はここ7月20日に閉店する予定で、それをすぎれば連絡のつかないものは処分される所でした。
    きっと母が呼んだのでしょうね。

    ここでトピをたてなければ、昨日電話が繋がらなかった時点で諦めていたと思います。みなさんありがとうございます! 料金後払いだったようで、送っていただけるようなのですが、どういう形で支払うか、本店と相談してまた連絡していただけるようです。本当に本当にうれしい!何年も浴衣着てないけど、今年は着ます!
    (三角牛乳)
    あったんですね!良かった! そして今月で閉店とは…。本当に良かったです。一度はガッカリさせてしまったので、とても気がかりで。私は見に行くことしかしてないですが、浴衣があった事で自分のことのように嬉しい気持ちになれました。
    あれからクリーニング屋さんの近くを通るとこのトピのことを思い出します。たぶんこれからも。幸せな気分をありがとう!主さんがずっと幸せでいられますように!
    ■最後にトピ主さんから感謝と近況のコメントです
    みなさんありがとうございます。本当に本当に嬉しいです! 三角牛乳さんに本当に感謝!そして定休日と気づいてくれた焼きそばさんにも感謝です!

    浴衣届きました。素敵な紺色の浴衣でした。

    外国から来た母が、結婚して初めて迎える夏に祖母(母から見たら義母)に貰った大事なものと言っていたものでした。
    箱を開けて、そう話していた時の記憶が鮮明に蘇り号泣してしまいました。
    祖母はまだ健在なので、明日早速みせに行こうと思います。
    テンションが上がって着る機会もないのに、娘ふたりの浴衣も買っちゃいました(笑)。
    せっかくなのでみんなで浴衣来てでかけたいと思います。
    御丁寧に当時の納品書と請求書も同封して頂いてます。税率も5%で…。
    その後トピ主さんは夏休みにお母さんの浴衣を着て花火大会に行かれたそうです。掲示版に書き込まなければお店が潰れていると思い諦めたお母さんの浴衣。そして処分直前のタイミングで見つかるなんて!こんなことってあるんですね。インターネットにはたくさんの情報が溢れていますが、人と人がつないだ奇跡に感動です。
    子育てで忙しい毎日ですが、このトピックスに元気をもらいました。みなさんも心にかかる事を掲示板に投稿してみてはいかかでしょうか? 思わぬ発見があるかもしれません。
    イイネ! 返信
  • [18] SS教授 2016/08/19 01:28

    PFCcV81F
    今月中旬、23時過ぎにドバイを出発しフィリピンに向かっていた「セブパシフィック航空」の機内は、普段と変わることなく多くの乗客が眠りについていた。しかし出発から5時間ほどである妊婦が陣痛を訴え、静まり返っていた機内はにわかに騒がしくなった。

    フィリピンを拠点とする格安航空会社「セブパシフィック航空」のドバイ発マニラ行きの機内で今月中旬、小さな女の赤ちゃんが誕生した。陣痛を訴えた女性のすぐ近くに座っていたというミッシー・バーベラベ・ウマンダル(Missy Berberabe Umandal)さんは14日、誕生までの機内の様子をFacebookに投稿。長時間の遅れに不満を述べるのではなく「フライト中の出産なんてめったにないこと。母って素晴らしい。とても感動したわ」と綴り、多くの人の共感を呼んでいる。

    ウマンダルさんによると「お客様の中に医師か看護師の方はいらっしゃいませんか?」と機内にドクターコールが響き渡ったのは、マニラまであと4時間という空の上だった。「緊急のアナウンスが入り客室乗務員の誰もが緊張しているようにみえました。2人の看護師が名乗りをあげ、女性は看護師らに支えられてスペースがある前方へ連れていかれましたが、この時にはもう赤ちゃんの頭が見えていたようです」と当時の緊迫した様子を振り返っている。

    「前方で女性が力む声が一度だけ聞こえました。そしてすぐその後に小さな、でも確かな泣き声が聞こえました。あっ、赤ちゃんが産まれたんだってわかりました。」

    「お母さんになった女性は赤ちゃんを確か“ヘィブン(Haven)”って呼んでいたと思います。」

    「客室乗務員らはこの後、小さなボウルにミネラルウォーターを注ぎ、産まれたばかりの子をきれいに洗ってあげたようです。すると赤ちゃんのいる乗客の1人が、スーツケースから新生児用の小さな洋服を提供してくれました。」

    出産した女性はしばらくするとしっかりとした足取りで赤ちゃんを抱え、元の席に戻っていったという。実はこの女性の出産予定日は10月。かなりの早産であったことを考慮し、パイロットはインドに緊急着陸することを決断した。飛行機は当初の予定より9時間ほど遅れてフィリピンに到着している。

    ウマンダルさんは「出発から18時間という長旅だったのにもかかわらず、不満をもらす乗客はいませんでした。あの出来事はみんなを幸せな気持ちにしてくれました」と語り、投稿の最後をこう締めくくっている。

    「お母さんになった女性へ。この投稿をあなたが読んでくれていることを願っています。今は赤ちゃんの世話で忙しくしていることでしょうが、ゆっくり休息してくださいね。あの日、あなたの出産をみんなで祝福できたことは素晴らしいこと。赤ちゃんとあなたの一生の幸せを願っています。」

    ところで産まれた赤ちゃんの国籍だが、国連の専門機関の一つ「国際民間航空機関(ICAO)」によると、国際線の飛行機内で誕生した子どもの国籍は搭乗した航空会社がどこの国のものであるかによって決められるという。「セブパシフィック航空」で誕生した赤ちゃんは、これによりフィリピンの市民権とパスポートを手に入れることになる。
    イイネ! 返信