MUSIC♪♪♪

PFCcV81F

音楽関係なら何でもあり♪オススメや画像でも何でもあり!!
  • [614] SS 2016/12/13 09:15

    PFCcV81F
    超レア画像
    最終日のlastGIGSに向かう氷室京介の車(苦笑)
    イイネ! 返信
  • [613] SS 2016/12/12 04:16

    PFCcV81F
    レア画像
    イイネ! 返信
  • [612] SS 2016/12/10 23:09

    PFCcV81F
    吉川晃司、尾崎豊、岡村靖幸の仲良し3人組レア画像
    イイネ! 返信
  • [611] SS 2016/12/09 03:08

    PFCcV81F
    レア画像
    イイネ! 返信
  • [610] SS 2016/12/08 12:51

    PFCcV81F
    last GIGSレア画像
    イイネ! 返信
  • [609] SS 2016/12/07 11:07

    PFCcV81F
    氷室京介Last GIGSに来た意外な方々
    他も布袋夫妻等
    イイネ! 返信
  • [608] SS 2016/12/06 01:19

    PFCcV81F
    また別の
    イイネ! 返信
  • [607] SS 2016/12/05 04:32

    PFCcV81F
    違うテレビの
    イイネ! 返信
  • [606] SS 2016/12/04 02:55

    PFCcV81F
    またまたレアなテレビ出演時のレア画像
    イイネ! 返信
  • [605] SS 2016/12/03 02:41

    PFCcV81F
    オールナイトフジ出演時
    レア画像
    イイネ! 返信
  • [604] SS 2016/12/02 05:35

    PFCcV81F
    レア画像
    イイネ! 返信
  • [603] SS 2016/12/01 03:31

    PFCcV81F
    歳をとるのは嫌ですな〜
    イイネ! 返信
  • [602] SS 2016/11/30 01:18

    PFCcV81F
    キングギドラのZeebraがDragon AshのKjを「公開処刑」騒動の詳細

    2002年にDragon Ashの曲が原因となって起きたキングギドラZeebraのKj「公開処刑」騒動。そのジャンルのファンやメディアにはこれ以前も以降もこんなに大きな騒動になった事はないだろう。
    ヒップホップ業界では通称”Dis”と呼ばれるこの騒動、実はアメリカのヒップホップ隆盛の必要要素でもあったのです。「公開処刑」に至った経緯と、その内容に迫ります。

    楽曲「公開処刑」でDragon AshのKjを公開処刑

    キングギドラの「公開処刑」は2002年10月にリリースされたアルバムに収録されている楽曲ですが、実はこの歌詞の内容、Dragon AshのKjを批判したもの。


    星の数ほどいるワックMC これ聞いてビビって泣くMC
    まぁせいぜいスキル磨きなめいめい 覚悟決めるのはオメェダケージェイ
    他の奴ら?用はねぇ バンド、取り巻き?用はねぇ
    クセエェ金魚の糞?用はねぇ おめえのグレートフルデイズも今日まで
    この先は通さねぇぜフェイク野郎 この俺が自ら手下そう



    その「公開処刑」の歌詞がこちら。う〜ん、なかなかに過激な内容ですねwww


    ドラゴン・アッシュが2000年に発表したシングルに「Summer Tribe」という曲がある。当時、私はこの曲を聞いて驚かされたものだった。


    降谷 建志(Kj)のラップがジブラのスタイルに酷似していたのだ。いやスタイルが似ているというレベルではない。声、ライミング、PVでの動き方、すべてが似ていた。とりわけ“声”。意図的にモノマネしたとしか思えないレベルであった。ライミングに関しては、ジブラのクラシック曲「真っ昼間」を意識しているな、と思わせる部分が多かった。



    自分達の曲を真似されたことに怒ったキングギドラZeebraがKjへの”Dis”として「公開処刑」を作曲した模様。いくら真似されたからって、こんな公に他人を”Dis”っていいの?と思う方もいるかとは思いますが、この”Dis”行為、ヒップホップの本場アメリカをはじめ意外と許容されているみたいです。

    ディスという行為は、良くも悪くもアメリカにおけるヒップホップの隆盛を促した要素のひとつだと言われています。


    相手をディスることで相手をヒップホップの流儀にのっとった上で「批判」し、「警鐘」を鳴らす。このようなディスは、MCバトルの人気とも繋がってアメリカで一般化しました。



    このように、ヒップホップ界では昔から割りとよくあることのようです。


    「公開処刑」で”Dis”の標的となったDragon AshのKj。Kjはキングギドラを尊敬していたとのことで、本人は真似したつもりはなく、憧れるあまりに声や曲調、パフォーマンスなんかが似てきてしまったのかもしれないですけどね。


    下記に、Dragon Ash(Kj)の公開処刑後のインタビューを紹介します。

    初めてあの曲の噂を聞いてから毎日考えてる。

    考えなかった日は一日もない。

    多分俺はずーっと引きずったまま生きてくんだと思う。

    ROCKIN'ON JAPAN 2003/5月号より
     公開処刑は、Kjにとっては、とてもインパクトが大きかったようです。2002年のMTVアワードで、ZEEBRAと会ったのを最後に、それから疎遠になるぐらいの出来事ですからね。でも、ZEEBRAは、公開処刑より以前にdisしているわけだから、ZEEBRAとしては、もっと早く気づいて欲しかったという事でしょう。


    「まあ、でもあれはHIPHOPじゃないですか。KGだし。日本のHIPHOPの根っこになっている人達だから。HIPHOPでは許されるんだと思いますよ。人を中傷したりとか。競い合うという流れが凄く強いカルチャーだと思うし。

    それこそ、彼らは半端な生き方はしてない訳だから。しっかりあのアルバムは評価受けてるし。言われた本人はそれは嫌ですけど、耐え難いですけど。買う人がいるという事は評価を受けてるって事なんですよね。

    ただ、俺はなんの為に音楽をやっているかというと、人と競い合う為に音楽やってる訳じゃないし、人を傷付ける為に音楽をやってる訳じゃない。自分の音楽を聴いてくれる人には汗をかいて楽しんで欲しいし、時に考えて欲しいし。」

    SWITCHより
     このインタビューから、KjのHIP HOPについての見解が分かります。ZEEBRAと大きく違います。ZEEBRAはdisを肯定しているが、Kjはdisを否定しています。このことから、Kjがアンサーソングとかを出さないのが伺えます。Dragon Ashの公開処刑後の曲からは、ZEEBRAの模倣はなくなっているので、ZEEBRAも今のDragon Ashを認めています。

     Kjは、模倣ではなく、REAL HIP HOP、Original HIP HOPを追求していく必要があったのでしょう。上辺だけのI LOVE HIP HOPでは、本気でHIP HOPをやってるZEEBRAが怒ってしまいます。
    イイネ! 返信
  • [601] SS 2016/11/29 05:24

    PFCcV81F
    lynch.明徳が逮捕 バンド活動自粛 レコード会社謝罪「反社会的な行為には厳しく対応」


     ベルウッド・レコードは24日、所属バンドlynch.(リンチ)のベーシスト・明徳が22日に愛知県警に逮捕されたことを公式サイトで発表した。

     同サイトで「誠に遺憾ながら弊社所属バンド『lynch.』のメンバーでベース担当の『明徳』が平成28年11月22日、愛知県警に逮捕されました」と公表し、「このことを重く受け止め、バンド・アーティストとしての活動を当面の間自粛することとしましたのでお知らせいたします。ファンの皆様及び関係者の皆様には多大なご迷惑とご心配をお掛けしますことを深くお詫び申し上げます」と謝罪した。

     現在「事実関係を確認中」といい、詳細は発表されていないが「当社といたしましては、反社会的な行為に関しましては厳しく対応し、警察の捜査には全面的に協力をさせていただく所存です」としている。

     活動自粛を受け、lynch.は25・26日に出演予定だったライブイベント『COMMUNE Vol.2』(東京・Zepp Tokyo)の出演をキャンセル。12月28日のロックフェス『COUNTDOWN JAPAN16/17』(千葉・幕張メッセ国際展示場、イベントホール)の出演もとりやめた。

    誰だよ(苦笑)
    イイネ! 返信
  • [600] SS 2016/11/27 23:51

    PFCcV81F
    Fernandes
    日本の楽器メーカーで、スピーカー内蔵エレクトリックギターZO-3等で知られています。

    フェルナンデスのギターを使用していている主なミュージシャンには以下の人たちがいます。
    今井寿(BUCK-TICK)
    星野英彦(BUCK-TICK)
    HEATH(X JAPAN)
    PATA(X JAPAN)
    hide(X JAPAN)
    布袋寅泰
    はなわ
    野村義男
    遠藤慎○輔

    つって(笑)
    イイネ! 返信
  • [599] SS 2016/11/26 03:57

    PFCcV81F
    BOOWY HUNTのインタビューで私的に面白かったエピソードを紹介します。 これ以外にすごい大量の情報が満載で、凄く貴重な情報が手に入りました。

    ・ヒムロックや布袋さんが音楽に関係なく、モデルとして『平凡パンチ』に10ページくらい載ったようです。
    ・糟谷さんが解散ライブは、武道館より大きい場所でやれって言いながら、武道館より大きい場所なんかないよな〜、と思っていたら丁度武道館より大きい東京ドームができてすごくタイミングがよかった。
    ・東京ドーム初日終わったあとに打ち上げで、布袋さんがまこっちゃんに「IMAGE DOWNのリズム早いんじゃない?」とか、明日解散するバンドなのに本気でライブのことを話していた。
    イイネ! 返信
  • [598] SS 2016/11/25 01:04

    PFCcV81F
    BOOWYのファンミーティングに言った人のブログ

    BOOWY HUNT 〜FUNKLOVE〜 ファンミーティングに行ってきました。

    その内容の一部をレポートいたします!


    子安次郎氏(ディレクター)
    鶴田正人氏(A&R)
    小澤啓二氏(プロモーション)
    廣瀬哲氏(プロモーション)

    そしてまこっちゃんを迎えた豪華キャストのBOOWYの思い出に浸るイベントでした。

    初っ端からいきなりPROLOGUEのインストバージョン(未発売)が流れました。

    いろんなエピソードを笑いを交えお話ししていただきました。 その中でもお伝えできる内容をピックアップしてお伝えしたいと思います。



    LAST GIGSのトラックダウンは新宿のTAKE1で行われた。

    小澤さんがBEAT EMOTIONが1位になったことを、ホテルのロビーで意気揚々と「実は、オリコン1位取りました〜!」って伝えたけどあまり誰も喜んでなくって、ヒムロックがすれ違いざまに「オリコン1位取るためにBOOWYを結成したんじゃない!」あ〜最悪だなって(笑)

    BOOWYのPSYCHOPATHのステージはベルリンの壁がモチーフで、沖縄公演では半分ぐらいしかお客さんが入ってなくって、前5列ぐらいが全員学生服で横ノリで、LIAR GIRL終わりでヒムロックが「てめえら横ノリしてんじゃねえっ!」て言ったようです。

    その時に、今までテレビ出たり、ファッション誌とかメジャーなメディアを通さずファンがファンに伝えていくという方法をとったんで、誰も知らいないのは当然で「俺たちのやってきたことは間違ってなかったんじゃね?」と皆で言ってたようです。

    竹下通のシャッターのペインティングはもの凄くいいアイデアだったけど、凄くお金が掛かってしまって・・・、店が終わってから修学旅行生が見に来ていた。

    ライターの方にどうやってBOOWYを広めていくかというミーティングをよく寿司屋でやっていた。 源氏ミーティングというらしいです。 そこにまこっちゃんが「俺も寿司食わせろ」っていって寿司食ってよろしくって言って帰ったそうです。

    オールナイトフジのライブのコーナーに出演した時の、リハを終えてモニターに映し出された映像にはヒムロックしか映ってなくって、布袋さんが小澤さんに「ヒムロックだけ出ればいいんじゃね」って言ったらしい、それを見かねてヒムロックは夜のヒットスタジオ出演では、いろいろやって、、、そこはすみませんが業界のご法度な行為がありましてこの場での発表は差し控えさせていただきます。 どなたかがTweetされてたのでそちらでご確認ください。 というわけでスタッフの方の交渉により、当日はいいカメラ割になったようです。

    毎回、打ち上げが凝っていてオシャレな場所で行われていた。 都有3号地の打ち上げはマハラジャのVIPルームで「なんでここなの」って怒られたようです。

    オシャレな打ち上げ場所でまこっちゃんが最後に演歌を歌って、せっかくのプランが台無しに。 小澤さんの結婚式ではまこっちゃと布袋さんで「あずさ2号」を歌ったらしいです。

    1224のアンコールの解散宣言の時に、異常事態だったため、小澤さんがライブ終了前にVIP席の奥様達を打ち上げ会場へ連れ出す担当で、「行きますよ」というと「最後まで見させて」と言われ、それに輪をかけたのが布袋さんで、布袋さんが彼女達がいるところに向かってギターを弾き続けたらしいです。

    LAST GIGSの打ち上げは赤坂プリンスで行われ、小澤さんが泣いていると、ヒムロックが「小澤ちゃんそろそろ涙を止めて、君以上に泣きたい4人がここにいます。」と言われたようです。

    季節が君だけを変えるのPVは、本人が出ていないので社内では不評で怒られたようです。歌舞伎町で撮影したが、怖い奴は小澤行けって、小澤さんがお願いしに行ったようです。

    MarionetteのPV撮影の時、松田聖子も同じスタジオだったので、メンバーが見に行ってしまって、撮影の時に誰もいなかった。 まっちゃんは本田美奈子が好きだったようですwww

    MarionetteのPVの鏡に飛び込んで割るシーンの撮影で、飴素材かなんかで出来たガラスは1枚しかなかったので、1回で決めてくださいと言われて、ヒムロックはそこに飛び込んで1発で決めたようです。 子安さん曰く本番に強い人だったとのこと。

    PSYCHOPATHの5人目のシルエットは永石勝さんがデザインして、何か一つ印象に残るものを残す方なので、永石さんにしか分からないようです。

    BOOWYが福岡で握手会をやったが20人ぐらいしかこなくて、鶴田さんがそのムードを一新しようと打上げを土屋さんに提案したら、土屋さんが却下して、この事態をどう収拾するのかを考えられた結果、肉にしてくれと言われたようです。 そして鶴田さんが知り合いの阿部さん(後に布袋さんのマネージャー)に頼んで、三馬力という分厚い肉を出してくれる店をセッティングしてもらったおかげで、ピリピリしていたメンバーの雰囲気が和やかになったようです。

    12/24の渋公の婚約発表ライブで、誰かさんが投げたギターが観客に当たって歯が折れたので、ライブ終了後BOOWY全員で千葉の病院まで謝罪に行って、被害者の友達と共に自宅へワゴン車で送ったらご家族にびっくりされたようです。 そして東京の打ち上げ会場に戻る前に、メンバーでクリスマスイブなのに吉牛で牛丼食べたらしいです

    会社的にはM-BANDを肩入れをされていて、BOOWYは期待されていなかったよう、そのためメンバー、スタッフも含め、会社を無視して、地位や名誉に捕らわれず、気持ちでやりたいことができたとのことでした。

    夜のヒットスタジオ出演時に、鶴田さんと小澤さんが、夜ヒットに出ちゃうと売れちゃうので出演してほしくないと拒否されていたようです。 今まで一生懸命やってきたことが、夜ヒットで売れたと思われるからだったようです。


    他にもいろいろお話が聞けましたが、無茶苦茶楽しかったです。 何より皆さん声がかっこよくって、お話しがうまくてさすが業界人だな〜と変な感動をしてしまいました。 大ファンの子安さんを始め皆さま渋いおじさまでした。

    イイネ! 返信
  • [597] SS 2016/11/24 03:35

    PFCcV81F
    1986年03月28日 TV音楽館(1回目)



    この日のアシスタントが初登場との事で、冒頭はヒムロックほったらかしで、アシスタントのオーディションやらなんやらの話が5分くらいw。
    その間ヒムロックは写りもしない。なんちゅー番組だ!!!

    この番組でヒムロックが「トト・コエロ」の「I EAT CARNIVALS(ときめき探検隊)」と「アイスハウス」の「HEY LITTLE GIRL」のPVがお気に入りとの事で、紹介されました。

    ヒムロックが「HEY LITTLE GIRL」が、僕のベストと言われてたので、興味があったので見てみると、何やら「HEY LITTLE GIRL」は物凄く「わがままジュリエット」のPVに近いものがあるなーと思いましたね。そして「わがままジュリエット」のPVの紹介時に、なんとわがままジュリエットは「HEY LITTLE GIRL」のPVを見ながら、その世界観で作ったとの事。どうりで似てるはずですね〜。

    というわけでわがままジュリエットのルーツを改めて知ることができました。下の画を見ていただければなんとなく分かると思います。ってか完全なるパクりwww


    1986年04月04日 TV音楽館(2回目)


    2週連続ゲストで出演。
    中学時代にこの番組の司会者である井上堯之が作った「傷だらけの天使」「天使の憂鬱」に影響されて、それまでえらい勉強ができたのに、これの影響で崩れだしたとの事w。更に話が弾み、「傷だらけの天使」のようなドラマにも出てみたいともおっしゃられていました。凄く出て欲しかったですね〜。かなりいい役者になりそうな気がするんですが!!!

    この回では「DEVID BOWIE」の「ASHES TO ASHES」と「トンプソン・ツインズ」の「SISTER OF MERCY」が紹介されました。そして、ライブでのエピソードとして、少し前にライブが終わってステージを降りた時に、FANの気持ちが伝わってきて、泣いたとおっしゃられていました。このころから感受性が強かったんですね。

    イイネ! 返信
  • [596] SS 2016/11/23 00:44

    PFCcV81F
    夜のヒットスタジオに出演したBOOWY。

    この映像は超有名ですよね。
    オープニングでは「恋人達のキャフェテラス」を歌い柏原芳恵を紹介しています。
    そしてBOOWYの番になり、最初は布袋が山下久美子との新婚生活について「なかなか会えない」とコメント。

    普通ならこの話題を引っ張るところなんですが、この回では、なんとヒムロックが初恋の人を自ら呼んで欲しいとリクエストをし、急遽ご対面コーナーが始まった。
    そしてその願いがかなった時の喜びよう、信じられないテンションです。初めて見たときはいつも歌っている時の硬派な印象とのギャップがあり過ぎて、びっくりしたもんです。恒松も同じ学校だったためか終始笑顔ですね。
    更にヒムロックのコメントが「TVに出るのが大好き」「さすがフジテレビだぜい!」、登場した須永さんには「きれいだー」。挙句のはてに「お付き合いしてはどうですか?」の問いに「そうですね」と即答。さすが!!!でも、この時ヒムロックって結婚してませんでしたっけ(汗)?しかし、須永さんも自身も結婚されているようで、小学生時代に続き同じ人に2度の失恋。ヒムロックみたいな男前でもかなわぬ恋があるんですね〜。この日歌った「わがままジュリエット」のように愛も夢もから回りな1日でした。
    イイネ! 返信
  • [595] SS 2016/11/22 04:20

    PFCcV81F
    布袋寅泰は日本を代表するアーティストであり、世界的な評価を獲得している数少ないミュージシャンだ。そんな布袋の足跡を、この機会に“オリジナリティ”という側面からたどってみたいと思う。
     布袋の名を世に知らしめたのは、BOØWYだった。僕は幸運にもデビュー前のBOØWYを間近で見たことがある。1981年、僕の友人のミュージシャンが「面白いバンドがいる」と、渋谷にあった小さなスタジオに連れていってくれた。BOØWYはそこでレコーディングのリハーサルをしていた。長身の布袋は、狭いスタジオの中で異様な存在感を放っていた。そして存在感以上に、鋭いギタープレイが僕に強烈な印象を残した。リズムを刻むコード・カッティングの技術が、飛び抜けてシャープだったのである。
     1980年代初頭の日本のバンドシーンでは、“ギター・ソロ”を第一に考えるギタリストが多かった。だが布袋はグルーヴ重視という、斬新なアプローチを持っていた。パンキッシュなコンセプトと並行して、シックのナイル・ロジャースからレイ・パーカーJr.へと連なるファンキーなリズム・ギターに魅せられていた布袋は、当時のバンドシーンにおいて唯一無二のユニークなギタリストだった。それは彼の作り出したロックバンドらしからぬキャッチ―なコーラスワークと並んで、BOØWYが86年にブレイクする際の決定的な武器になった。今聴いてもBOØWYが新鮮なのは、この二つの武器の力によるところが大きい。
    布袋寅泰 GUITARHYTHM
    2016 年4月7日(木)国立代々木競技場 第一体育館より
     BOØWY時代の布袋の特徴として、もう一つ挙げられるのは、“ギター・リフ”だろう。「BAD FEELING」のイントロに代表されるリフは、一度聴いたら忘れられない魔力を持つ。BUCK-TICKの今井寿や元JUDY AND MARYのTAKUYAなど布袋をリスペクトするギタリストたちが、「あのグルーヴィーなリフにやられた」と口々に言うのも納得の個性なのである。ギター・ソロを必要以上に重要視せず、グルーヴを最優先した布袋だからこそのオリジナリティがここにある。
     布袋はBOØWYが解散した88年に『GUITARHYTHM』でソロ・デビューした。このファーストアルバムには、その後の彼の展開を予言する要素が数多く入っていて興味深い。
    まず、徹底的に洋楽を意識した音楽作りは、世界進出を予感させる。また歌詞も当時の不穏な世界情勢を反映していて、他の日本のアーティストとは視点がまったく異なっていた。ギターをメインにしたインストルメンタルという部分では、その後の映画音楽への進出の伏線になっている。そしてボーカリストへの転進も意識されていた。これほど多くの可能性をデビューアルバムで自ら示唆できるミュージシャンはいない。これも布袋のオリジナリティの質の高さと強く結びついている。
     『GUITARHYTHM』で自らの未来を示した88年に、布袋は吉川晃司とCOMPLEXを結成する。BOØWYでの経験を完全に客観視した布袋は、“ボーカルとギター”というツートップ・スタイルのユニットの頂点を極める。ツートップに似合う曲を書き、ツートップを活かしたビジュアルの演出を作り出した。「BE MY BABY」の衝撃的なPVを生んだプロデューサー感覚も、布袋ならではの特長だろう。短期間で終わったCOMPLEXだったが、2011年に東日本大震災のチャリティのために再結成されたとき、布袋の描いた設計図の素晴らしい完成形を見ることができたのはラッキーだった。
     COMPLEX以降、これほどのツートップ・ユニットは日本の音楽シーンに現われていない。特にギターを弾くときに膝を高く上げるアクションは、BOØWY とCOMPLEXというツートップ・スタイルを追求する中で生まれた、布袋ならではのオリジナルなパフォーマンスだと言えよう。
     ここから布袋は本格的なソロ活動に入り、“日本のロック・ボーカリスト”という、まったく新しいジャンルに挑戦することになる。その第一歩は91年に出した『GUITARHYTHM U』だった。
    洋楽指向だった『GUITARHYTHM』とは異なり、日本のリスナーを強く意識した曲作りにトライする。別の見方をすれば、“新進ロック・ボーカリスト布袋”のために曲を作り始めたとも言えるだろう。
     それにしても布袋のソングライターとしての引き出しの多さには驚かされる。後に今井美樹の「PRIDE」(96年)など提供楽曲が大ヒットするが、ロックだけではなく、純粋なポップスやジャージーなメロディを書くことも楽しんでいる。そうしたソングライティングが間もなく開花して、「LONELY★WILD」(92年)、「さらば青春の光」(93年)、「サレンダー」(94年)など次々と布袋自身のヒットが生まれ、ソロ活動は軌道に乗っていく。
     ここで注目したいのは、“ソングライター布袋”から渡された楽曲を、“ボーカリスト布袋”が見事に歌いこなしたことだろう。手探りで始めたボーカルだからこそ、スムーズでない部分も含めて、ロッカーとしての生き様をリアルに伝えることができた。これもまた布袋のオリジナリティだった。その説得力のあるボーカルは感動を呼び、現在でも布袋が多くの男性ファンを持っていることの一因となっている。

     面白いのは、布袋のトリビュート・アルバム『ALL TIME SUPER GUEST』(2011年)で、「ラストシーン」(96年発表)という曲を大橋トリオがカバーしていることだ。これは布袋が大橋を指名して実現したもので、この曲に大橋のジャジーなテイストがぴったり合っていて、アルバム『ALL TIME SUPER GUEST』のハイライトになっている。おそらく布袋がこの曲を書いたときのイメージは、大橋のテイクに近かったのではないかと思われる。ただファンのことを考えて、布袋のオリジナル・バージョンはロックテイストになったのかもしれない。つくづく布袋の音楽性の多彩さにはびっくりさせられる。
     “ボーカリスト布袋”とともに、もう一つ90年代で見逃せないのは、インストルメンタルの側面だ。特に重要だったのは、94年に奈良・東大寺で行なわれたイベント“AONIYOSHI”でのマイケル・ケイメンとの出会いだろう。マイケルは『未来世紀ブラジル』や『ロビン・フッド』(第34回グラミー賞)などの映画音楽を多数手掛けていた。意気投合した布袋はマイケルのオファーを受けて、アトランタ五輪閉会式(96年)の演奏に加わる。さらにはギターとオーケストラの融合作品『GUITAR CONCERTO』にも参加した。
     この経験は、布袋にワールドワイドな展望を与えたエポックメイキングなものだった。マイケルは残念ながら2003年に亡くなったが、その年にクエンティン・タランティーノ監督の映画『キル・ビル』のテーマに「Battle Without Honor or Humanity」が起用されたのは、偶然ではなかったのかもしれない。その際の布袋の対応は、これまでの日本人ミュージシャンの誰とも違う堂々としたものだった。このアティチュードは、布袋がマイケルから受け継いだものの一つに思えてならない。 
     布袋のインストや映画音楽は、初期の頃からクオリティが高かったが、ボーカリストとしての経験やマイケルとの交流が、彼のオリジナリティをさらに磨いたに違いない。


    オールタイムベストから見えてくる布袋寅泰によるオリジナリティの源泉とは?

     21世紀に入ると、布袋の活動は自由度を増していく。楽しかったのは、布袋がCharと元ストレイ・キャッツのブライアン・セッツァーを迎えて、思い切りプレイした夢のようなイベント『HOTEI presents“SUPER SOUL SESSIONS”BRIAN SETZER vs HOTEI vs CHAR』(07年)だった。全員が超個性的なギターのプレイスタイルを持ち、ボーカルも取れる、まさにスーパーセッションとなった。僕は3夜のうち横浜アリーナ公演を観たが、一人のミュージシャンとして伸び伸びプレイする布袋は、本当に楽しそうだった。先輩も後輩も国籍も関係ないセッションは、布袋の柔軟な音楽性を自然に引き出していた。3人は、言葉ではなく、ギターで会話していた。それがマニアックなギター・ファンでなくとも楽しめる次元まで昇華されていたのが、とても印象的だった。
     2012年、2月1日に布袋は50歳の誕生日を迎えた。前年から続いていた30thアニバーサリー・ライブ・シリーズもこの日が最後。会場のさいたまスーパーアリーナでは、オープニングからBOØWY 、COMPLEX、GUITARHYTHMの曲がランダムに歌われる。それこそこの原稿で書いてきた布袋のオリジナリティのオンパレードだった。
     このライブで一つの区切りを付けたかのように、この年の夏、布袋はロンドンに居を移す。理由は「ずっと世界で活躍することを夢見てきた」。実際、彼は永年、ロンドンを第二の故郷のように往復してきた。その地で50歳にしてゼロから出発としようと言うのだ。

     過去も現在も“世界進出”を口にする日本のミュージシャンは多くいる。しかしそのほとんどは、日本にいながらそう言っているだけで成功には至らない。反対に成功しているのは、海外に住んでいるアーティストが多い。当たり前と言えば当たり前なのだが、世界進出を実行するとなると、そのハードルは非常に高い。しかも日本で大成功した50歳ミュージシャンのチャレンジとなると、前代未聞だ。だがそこにあえて踏み込むのが、いかにも布袋らしい。
     もしかすると、この“世界に向かう意志”こそが、布袋の最大のオリジナリティなのかもしれない。音楽のジャンルやプレイスタイルを軽々と超えて、ワールドワイドなロック・ギタリストとして存在したいという意志。それは少年の頃からの布袋の夢だった。
     2014年、来日したザ・ローリング・ストーンズの東京ドーム公演のステージに立った布袋は、まさにワールドワイドなロック・ギタリストだった。
    そして2015年、ついに布袋はインターナショナル・アルバム『Strangers』をイギリス、ヨーロッパでリリースした。ライブも“地元ロンドン”をはじめ、2016年にはベルリン、パリ、アムステルダムで成功させている。それはオリジナリティを通じて世界につながる布袋だからこそ、成し遂げられた快挙といえるだろう。もちろん日本での35周年を記念した企画『8BEATのシルエット』の大活躍も見逃せない。 「夢を果たす」、そこに布袋のオリジナリティの源泉がある。
    イイネ! 返信