復活!いい話スレ(ToT)

PFCcV81F

初期カオス帝国にあったいい話、感動スレが復活!
文字通りいい話、感動する話、泣ける話や話題等の実話やコピペ等のスレッド( ;∀;)
  • [17] SS 2016/08/18 03:14

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    英ウェールズのスウォンジーに住むリンゼイ・スミスさん(34)は、この18年間眠ることができないでいる。「発作が起これば命の危険に繋がります」そう医師に宣告された娘を持つリンゼイさんは、一瞬でも娘から目を離すことができない。取り返しのつかないことにならぬよう、普段の生活で全く気を抜くことができないのだ。

    リンゼイさんは16歳の時に出産。現在18歳になる娘ジェイデンさんは、重度のてんかんを患っている。この18年間、発作が起これば命の危機に晒される娘の世話を24時間つきっきりで行ってきた。居眠りをしてしまわないようにと夜も1時間おきにアラームをセットする。毎日1時間あるかないかの睡眠で過ごしているというリンゼイさんの体力はもう限界に近付いていた。

    「娘のことは、何よりも大切です。その気持ちに変わりはありません。娘を産んだことも後悔はしていません。でも、シングルマザーとしてひとりで病気の娘を支えていくことはやっぱり辛い」と、リンゼイさんは本音を英紙『Mirror』に語った。

    自分が寝ている間に、娘が発作を起こしてしまえば命取りになる可能性がある…。そんなプレッシャーはこの18年間、リンゼイさんに一時たりとも休息を与えなかった。こうしたてんかん発作を事前に察知し、アラームで知らせるという特別な警報器があるのだが、リンゼイさんが国営保健サービス(NHS)にその適用を申請したところ却下されてしまった。

    この国営保健サービスでは、一般の診療費や治療費、手術代、出産費用などが無料になる。しかし病院側が赤字になることも多く、本当に対応が必要な重篤な患者まで手が回らないというケースもしばしば起こっているという。今回リンゼイさんが拒否されてしまったのも、恐らく予算の都合と現在の患者数が関係しているとみられる。

    さらには最近のBrexit(EU離脱)の煽りを受けて、ひとり親世帯や障がいを抱える人たちなどは国からの支援が大幅にカットされるという話もある。EU離脱は数年後になるとはいえ、現在も既にその影響を受けている市民は少なくない。

    シングルマザーとして重度な疾患を抱える子供と毎日ギリギリの生活をしているリンゼイさんには、娘のための特別な警報器を実費で購入することは不可能であった。そこで『The Sunday People』紙がこの一件を報じると、読者からの寄付金が寄せられた。特別な警報器は値段がおよそ900ポンド(約11万6000円)。ひとりではとても出せなかった金額が、優しい支援者のおかげで集まり、リンゼイさんはジェイデンさんのためにようやく特別の警報器を手に入れることができた。

    「この18年間、私はゾンビのようでした。昼間に、夜ゆっくり休んでいる自分を想像してしまうほど夜の休息を望んでいました。夜ぐっすり眠れるということは、今の私にとって最高の休日を与えられるのと同じことなのです。」

    そのように話すリンゼイさんにとって、この18年間はまさに苦悩の連続だったことだろう。「ほんの少しでもいいから横になりたい」というささやかな願いをついに叶えることができると、リンゼイさんは、支援者全員に感謝の気持ちを述べた。

    ジェイデンさんは医師から「30歳までは生きられない」と宣告を受けている。「娘に残された時間は限られています。でも(今後は)少しリラックスしながら娘の世話ができそうです」と語るリンゼイさんだが、医師の余命宣告を超えて、愛する娘に奇跡が起こることを祈っているに違いない。
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  • [16] SS 2016/07/18 11:38

    PFCcV81F
    温かく思いやりあふれる親子間の感動的な話題が、圧倒的に多いのが実は中国。このたびは『China Daily(中国日報)』が、白血病の父親をどうにか救いたいとして必死の努力を続けた小学生の話題を伝えた。

    中国・江蘇省にある「徐州医学院附属病院」の無菌室のベッドに横たわりながら、ガラス越しに妻子と手話で会話するCao Leiさん。今年初めに体調を崩して白血病と診断され、妻のZhang Linさんと息子のCao Yinpeng君を自宅に残し、唯一の治療方法といわれる造血幹細胞移植を辛抱強く待ちながら入院生活を送ってきた。

    移植にはドナーとなる人とCao Leiさんの白血球HLA型が一致することが条件となる。ところが骨髄バンクのデータもさることながら、親類の誰ひとりとして一致する者はおらず、両親はともに高齢である。絶望感で誰もが肩を落としかけていたところ、なんとひとり息子のYinpeng君が一致することが判明した。しかし医師は「安全のためにドナーは体重が45kg以上であることが条件」と当時35.5kgしかないYinpeng君に説明。すると父親を何とか助けたいと必死なYinpeng君は、連日のように大量に食事をとり、速やかに体重を増やしていった。

    こうして10kg以上の増量に成功したYinpeng君は、7月になると徐州医学院附属病院に入院。6日、少年の体からは造血幹細胞が355mlも抜き取られた。日本の骨髄バンクがドナーを「健康な18歳〜54歳」と定めていることでもわかるように、それはまだ小学生のYinpeng君には大変な負担を強いる行為であった。だがその強い信念と祈りが通じたのであろう。移植手術は成功し、Cao Leiさんの容態はどんどん快方に向かっており、Yinpeng君の健康状態にも異変はなく、無理に増やした体重も徐々に落ちてきている。

    医療費はすでに約600万円を超えているが、今後の治療にもさらに同額程度の費用が必要とされたCao Leiさん。これまで一家はマンションの一室に暮らしていたが、父親の治療費にあてるためそれも売却してしまった。しかし辛いことを次々と乗り越えてきたCaoさん親子にやっと笑顔が戻ってきたのだ。今年の冬、体調が許せば一家でオーストラリアに旅行したいと考えているそうだ。
    イイネ! 返信
  • [15] SS 2016/07/13 00:40

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     7月7日は、七夕。織姫と彦星が年に1度の逢瀬を楽しむこの日…。さまざまな願いが重なり合う日でもあった。45才の会社員の女性は、七夕に亡き夫の思い出を噛みしめているという。

     * * *

     学生結婚をした私たちは、子供にこそ恵まれませんでしたが、けんかひとつしたことのない夫婦でした。ですから、夫にスキルス胃がんが見つかり、手の施しようがないと医師に言われた時は耳を疑いました。

     そして、半年の闘病生活の後、夫は亡くなりました。まだ37才でした。私は落ち込んで、家にこもりました。夫の看病に専念したいと、仕事も辞めていました。暗い部屋に閉じこもり、夫のところに行こうかと毎日考えていました。

     そんなある日、家にカサブランカ、トルコキキョウ、ヒマワリの花束が届きました。それは夫が私の誕生日に毎年プレゼントしてくれていた組み合わせです。まさかと思いながら添えてあるカードを見ると、夫の字で、「誕生日おめでとう。今年は一緒に祝えなくてごめん。ぼくはきみの笑顔が好きなので、どうか笑っていてください」と書かれていました。そして、「また来年の誕生日にも手紙を送ります」と…。

     毎日病室に面会に行っていたのに、いつの間に花束の手配をしていたのでしょう。来年の7月7日の誕生日に、また夫から手紙が届くと思うと、生きる希望が湧いてきました。私は再就職して、次の七夕を待ちました。そして待ちに待った7月7日、ドキドキしながらカードを開くと、そこには、お祝いの言葉の後に絶望的なひと言が。

    「ぼくのことは忘れて、新しい家庭を築き、幸せになってほしい」と…。

     そして、手紙はこれで最後であると書かれていました。最期まで私を思ってくれた夫を忘れることなど、できるはずがありません。弱いままの私では夫が心配する。

     私は夫の手紙で、ひとりで強く生きて行くことを決めました。今でも七夕になると、夫が贈ってくれた花束を部屋に飾ります。そして、夫に愛された幸せをかみしめています。
    イイネ! 返信
  • [14] SS 2016/07/12 01:24

    PFCcV81F
    世の中捨てたもんじゃない!「電車で遭遇した」温かな人たち


    さまざまな人が乗りあわせる電車。他人同士とはいえ、同じ時間を共有する人と人とのつながりの空間でもあるため、ほっこりとする光景もあるようだ。

    しらべぇ取材班は、人々に「電車の中で遭遇した温かな人たち」を聞いてみた。

    @ユーモア溢れるママさん

    「わりと混雑した電車に、小さな赤ん坊を抱っこ紐で抱いたママさんが乗車。座っていた自分は『疲れているのに、席譲らないといけないのか…』と思ったんですが。

    ママさんを見て一安心。抱っこ紐の真ん中にアップリケがついており『席は譲らなくて大丈夫です! 立ってカロリー消費! 産後ダイエット中…』とデカデカと書いてありました。

    自分の弱い部分をみせて座ろうとする人が多い中で、こういう配慮ができる人は面白いし素敵だな…と感動しました」(男性・32歳)

    A心優しい老夫婦

    「彼氏に振られた帰りの電車内でひとりで号泣していたら、杖をついた高齢の夫婦が近づいてきて。私の手に何かを握らせて、そのまま停車した駅に降りていきました。

    手の中を見たら、3,000円と『これで美味しいものでも食べて元気出して。あなたの人生はまだまだこれから』と走り書きが。

    かれこれ8年くらい前ですが、今でも大切にしています」(女性・29歳)

    B人は見た目ではない

    「電車内に金髪でアクセサリーを大量につけた若いカップルが。内心『うわ…トラブル起こしそうで怖いな』と思っていたんですが…

    優先席が空いたときに、『あそこ空いたね。座る?』『あそこは優先席だから、俺らが座るべきじゃない。立ってよう』と笑顔で。

    その後、清楚系の女性が乗ってきて優先席にドカリと座り、次の駅でお年寄りが乗ってきても寝たふり。人は見かけじゃないことを学んだ瞬間です」(男性・28歳)

    C見事な連携プレーで女性を救出

    「電車がトラブルで遅延したのと終電の混雑があわさり、車内は足が宙に浮くほどの混雑になったことがありました。最寄駅についたときには、車両の真ん中で身動きもとれず…。

    泣きそうになっていたら、付近のオジさんたちが気づいて、『ひとり降ろしてあげてー』と周りに声をかけあってくれたり腕を引っぱったりしてくれて、下りるのに協力してくれました。

    私は右往左往するだけでしたが、世のお父さん世代は社会経験が長いだけあって、やはり頼りになるんだな…と尊敬するようになりました」(女性・24歳)

    電車は非常識な人ばかりが目についてしまうが、人同士の温かなつながりもある。このような良い思い出として人の心に残る人間になりたいものだ。
    イイネ! 返信
  • [13] SS 2016/06/06 02:08

    PFCcV81F
    ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。

    「○○ちゃんから、神様に手紙を届けてほしいって言われたんです」 こっそりと中を読んでみたら、
    「いいこにするので、ぱぱをかえしてください。おねがいします」
    と書いてあったそうだ。
    旦那は去年、交通事故で他界した。
    字を覚えたかったのは、神様に手紙を書くためだったんだ・・・
    受話器を持ったまま、私も先生も泣いてしまった。

    「もう少ししたら、パパ戻って来るんだよ〜」
    最近、娘が明るい声を出す意味がこれでやっとつながった。


    娘の心と、写真にしか残っていない旦那を思って涙が止まらない
    イイネ! 返信
  • [12] SS 2016/06/01 00:23

    PFCcV81F
    うちは貧乏な母子家庭で、俺が生まれた時はカメラなんてなかった
    だから写真の変わりに母さんが色鉛筆で俺の絵を描いて、アルバムにしてた
    絵は上手じゃない
    ただ、どうにかして形に残したかったらしい
    ほぼ毎日、赤ん坊の俺を一生懸命描いてた
    絵の隣に『キゲンが悪いのかな??』とか『すやすや眠ってます?』ってコメント付きで
    小学四年生の時、家に遊びに来た友達数人に、そのアルバムを発見された
    めちゃくちゃ笑われて、貧乏を馬鹿にされた
    友達が帰って直ぐ、俺はアルバム三冊をバラバラに破いてゴミ箱に捨てた
    パートから帰って来た母さんがそれを見つけて、泣きだした
    破いた理由を言っても、変わらず泣き続けた
    翌朝起きると、居間で母さんがゴミ箱から絵の破片を集めてセロハンテープでとめてた
    「恥ずかしい思いさせてごめんね。でもね、これ、母さんの宝物なんよ」
    申し訳なさそうに優しくそう言われると、涙が溢れ、俺はごめんなさいと謝った
    イイネ! 返信
  • [11] SS 2016/05/31 08:12

    PFCcV81F
    私を大学に通わせてくれた母へ

    あなたは私を産むまでずっと父の暴力に苦しんでいましたね
    私が産まれて時、あなたは泣きながら喜んだんですね
    私が一歳の誕生日に、借金を抱えたまま父が自殺しましたね
    借金を返すために昼はパート夜は居酒屋で仕事の毎日でしたね
    保育園では遠足のおやつは雑穀のおはぎでしたね
    小学校の給食費を払えない月もありましたね
    修学旅行のおみやげはご当地キーホルダーだけでしたね
    中学の制服は親戚のおさがりでしたね
    高校のお弁当はいつもご飯に梅干しと海苔でしたね

    無理を承知で大学行きたいと頼んだ時、あなたは反論しませんでしたね
    ごみ処理場から捨てる予定の参考書をもらいに行きましたね
    お金がかかるから私立は受けられず、国立専願受験でしたね
    センター試験の前日には初めて特上寿司を食べさせてくれましたね
    センター試験に失敗したけど、あなたは最後まで諦めないよう励ましてくれましたね
    前期に落ちて、一度私は自殺しかけましたね
    あなたは怒ることもなく、ずっと私に謝り続けていましたね
    私もあなたにずっと謝り続けましたね
    そして私は気持ちを切り替えて後 私はその後も頑張って勉強して、なんとか後期に合格することが出来ましたね あなたはずっと 「おめでとう、おめでとう」と泣き続けてくれましたね

    でもあなたは入学の準備の時に急に倒れて病院に運ばれましたね 医者が、癌が全身に転移していてこれから一週間が峠だと告げましたね
    私がただただ泣き続けている時にあなたは「この体の傷や癌の一つ一つがあなたを育てあげた立派な勲章なのよ」と微笑みながら言いましたね 
    あなたは最後まで泣くことも苦しむこともなく、静かにこの世を去りましたね

    今私は医者になるために毎日一生懸命に勉強していますよ あなたの命を奪った癌に苦しむ人々を治療して助けたいから
    私が育った環境は決して恵まれてはいなかったけれど、あなたに生まれ、育てられて本当によかったよ

    ありがとう、お母さん。
    イイネ! 返信
  • [10] SS 2016/05/30 02:47

    PFCcV81F
    今日珍しく俺は母ちゃんを外食に誘った。
    行き先は昔からよく行く馴染みのラーメン屋だった。
    俺は味噌大盛り、母ちゃんは味噌並み盛りを頼んだ。
    「昔からここ美味しいのよね」って、柄にもなく顔にシワよせて笑ってたんだ。

    ラーメンが出来上がると、俺も母ちゃんも夢中で麺をすすってた。
    あんまりにも母ちゃんがニコニコしながら食べてるもんだから、
    俺もつられて笑っちまったよ。

    しばらく経って、ラーメンを食い終わった俺はふと母ちゃんの方を見たんだ。
    ラーメンの器に浮かぶチャーシューが一枚、二枚、三枚・・。そのチャーシューを捲ると麺がまだ沢山余ってた。
    母ちゃんは俺の方を申し訳なさそうに見て、「ごめんね、母ちゃんもう年だから。ごめんね」と繰り返してた。
    「んなもんしゃーねーべ」と言うと、俺は母ちゃんの残したラーメンをすすった。
    そういやガキの頃、よく無理して大盛り頼んで、結局食べきれなくて母ちゃんに食ってもらってたっけ。
    いつの間にか立場も逆転。あんなに若かった母ちゃんの顔も今じゃシワだらけで、背丈も頭一個分違う。
    そのシワの数程今まで散々迷惑掛けたんだろうなって思うと、悔しさと不甲斐なさで涙が出てくる。
    母ちゃん、こんな俺を今まで育ててくれてありがとう。

    俺、立派な社会人になるわ。
    イイネ! 返信
  • [9] SS 2016/05/29 00:52

    PFCcV81F
    ヘタレプログラマーは,今日も仕事で疲れきって,遅くなって家に帰ってきた。すると,彼の5歳になる娘がドアのところで待っていたのである。彼は驚いて言った。

    「まだ起きていたのか。もう遅いから早く寝なさい」
    「パパ。寝る前に聞きたいことがあるんだけど」
    「なんだ?」
    「パパは,1時間にいくらお金をかせぐの?」
    「お前には関係ないことだ」ヘタレプログラマーである父親はイライラして言った。「なんだって,そんなこと聞くんだ?」
    「どうしても知りたいだけなの。1時間にいくらなの?」女の子は嘆願した。
    「あまり給料は良くないさ・・・20ドルくらいだな。ただし残業代はタダだ」
    「わあ」女の子は言った。「ねえ。パパ。私に10ドル貸してくれない?」
    「なんだって!」疲れていた父親は激昂した。「お前が何不自由なく暮らせるためにオレは働いているんだ。それが金が欲しいだなんて。だめだ!早く部屋に行って寝なさい!」

    女の子は,黙って自分の部屋に行った。
    しばらくして,父親は後悔し始めた。少し厳しく叱りすぎたかもしれない...。たぶん,娘はどうしても買わなくちゃならないものがあったのだろう。それに,今まで娘はそんなに何かをねだるってことはしない方だった・・・
    男は,娘の部屋に行くと,そっとドアを開けた。

    「もう,寝ちゃったかい?」彼は小さな声で言った。
    「ううん。パパ」女の子の声がした。少し泣いているようだ。
    「今日は長いこと働いていたし,ちょっとイライラしてたんだ・・・ほら。お前の10ドルだよ」
    女の子は,ベットから起きあがって,顔を輝かせた。「ありがとう。パパ!」
    そして,小さな手を枕の下に入れると,数枚の硬貨を取り出した。

    父親はちょっとびっくりして言った。「おいおい。もういくらか持ってるじゃないか」
    「だって足りなかったんだもん。でももう足りたよ」女の子は答えた。そして,10ドル札と硬貨を父親に差しのべて...
    「パパ。私,20ドル持ってるの。これでパパの1時間を買えるよね?」
    イイネ! 返信
  • [8] SS 2016/05/27 00:19

    PFCcV81F
    私の家族は父、母、私、弟の四人家族。

    弟がまだ六歳の時の話。
    弟と私は十二才離れてる。凄く可愛い弟。
    だけど遊びさかりだったし家に居れば父と母の取っ組み合いに巻き込まれる。
    だからほとんど家には帰らない日々だった。
    弟は毎日恐く淋しかっただろう。
    ある日家に帰ったら、お酒ばかり飲んで人の顔を見れば殴る父が座って一冊のノートを見ながら泣いていた。
    私もノートを覗き込んだんだ。
    そしたらね父が急に「ごめんな」って言うの。
    よく見たら弟がまだ汚い字で物語を書いてた。
    僕には楽しいパパ、優しいママ、いつも笑顔のお姉ちゃんがいる。
    いつも皆でおいしいご飯を笑いながら食べる。
    毎週日曜日は家族でお出かけをする。
    僕は皆にいつもいい子されて幸せいっぱい。
    毎日笑顔がいっぱい。
    そんなような事が沢山書かれてた。
    普通なら当たり前なのに私の家では出来ていなかった事が想像で沢山かかれてた。
    紛れもなく弟の夢が描かれてた。
    父と泣いて読んだ。
    母がパートから帰ってきて母も読み泣いた。
    その日の夜は揃って鍋をした。弟は初めての体験。
    凄い笑ってた。
    父も母も私も照れながら
    笑った。
    それから
    少しづつ弟の物語は現実になった。
    今では笑顔沢山の家族になりました。

    弟の物語はあれ以来書かれなくなった。
    イイネ! 返信
  • [7] SS 2016/05/26 12:52

    PFCcV81F
    俺の母親は、俺が2歳の時にがんで死んだそうだ。
    まだ物心つく前のことだから、当時はあまり寂しいなんていう感情もあまりわかなかった。
    この手の話でよくあるような、「母親がいない事を理由にいじめられる」なんて事も全然なくて、
    良い友達に恵まれて、それなりに充実した少年時代だったと思う。
    こんな風に片親なのに人並み以上に楽しく毎日を送れていたのは、
    やはり他ならぬ父の頑張りがあったからだと今も思う。

    あれは俺が小学校に入学してすぐにあった、父母同伴の遠足から帰ってきたときのこと。
    父は仕事で忙しいことがわかっていたので、一緒に来られないことを憎んだりはしなかった。
    一人お弁当を食べる俺を、友達のY君とそのお母さんが一緒に食べようって誘ってくれて、寂しくもなかった。
    でもなんとなく、Y君のお弁当に入っていた星形のにんじんがなぜだかとっても羨ましくなって、
    その日仕事から帰ったばかりの父に「僕のお弁当のにんじんも星の形がいい」ってお願いしたんだ。

    当時の俺はガキなりにも母親がいないという家庭環境に気を使ったりしてて、
    「何でうちにはお母さんがいないの」なんてことも父には一度だって聞いたことがなかった。
    星の形のにんじんだって、ただ単純にかっこいいからって、羨ましかっただけだったんだ。
    でも父にはそれが、母親がいない俺が一生懸命文句を言っているみたいに見えて、とても悲しかったらしい。
    突然俺をかき抱いて「ごめんな、ごめんな」って言ってわんわん泣いたんだ。
    いつも厳しくって、何かいたずらをしようものなら遠慮なくゲンコツを落としてきた父の泣き顔を見たのはそれがはじめて。
    同時に何で親父が泣いてるかわかっちゃって、俺も悲しくなって台所で男二人抱き合ってわんわん泣いたっけ。

    それからというもの、俺の弁当に入ってるにんじんは、ずっと星の形をしてた。
    高校になってもそれは続いて、いい加減恥ずかしくなってきて「もういいよ」なんて俺が言っても、
    「お前だってそれを見るたび恥ずかしい過去を思い出せるだろ」って冗談めかして笑ったっけ。

    そんな父も、今年結婚をした。相手は俺が羨ましくなるくらい気立てのいい女性だ。
    結婚式のスピーチの時、俺が「星の形のにんじん」の話をしたとき、親父は人前だってのに、またわんわん泣いた。
    でもそんな親父よりも、再婚相手の女の人のほうがもらい泣きしてもっとわんわん泣いてたっけ。
    良い相手を見つけられて、ほんとうに良かったね。
    心からおめでとう。そしてありがとう、お父さん。
    イイネ! 返信
  • [6] SS 2016/05/25 00:31

    PFCcV81F
    小1の秋に母親が男作って家を出ていき、俺は親父の飯で育てられた。
    当時は親父の下手くそな料理が嫌でたまらず、また母親が突然いなくなった
    寂しさもあいまって俺は飯のたびに癇癪おこして大泣きしたりわめいたり、
    ひどい時には焦げた卵焼きを親父に向けて投げつけたりなんてこともあった。

    翌年、小2の春にあった遠足の弁当もやっぱり親父の手作り。
    俺は嫌でたまらず、一口も食べずに友達にちょっとずつわけてもらったおかずと
    持っていったお菓子のみで腹を満たした。弁当の中身は道に捨ててしまった。
    家に帰って空の弁当箱を親父に渡すと、親父は俺が全部食べたんだと思い
    涙目になりながら俺の頭をぐりぐりと撫で、「全部食ったか、えらいな!ありがとうなあ!」
    と本当に嬉しそうな声と顔で言った。俺は本当のことなんてもちろん言えなかった。

    でもその後の家庭訪問の時に、担任の先生が俺が遠足で弁当を捨てていたことを親父に言ったわけ。
    親父は相当なショックを受けてて、でも先生が帰った後も俺に対して怒鳴ったりはせずにただ項垂れていた。
    さすがに罪悪感を覚えた俺は気まずさもあってその夜、早々に布団に もぐりこんだ。
    でもなかなか眠れず、やっぱり親父に謝ろうと思い親父のところに戻ろうとした。
    流しのところの電気がついてたので皿でも洗ってんのかなと思って覗いたら、
    親父が読みすぎたせいかボロボロになった料理の本と遠足の時に持ってった弁当箱を見ながら泣いていた。

    で、俺はその時ようやく、自分がとんでもないことをしたんだってことを自覚した。
    でも初めて見る泣いてる親父の姿にびびってしまい、謝ろうにもなかなか踏み出せない。

    結局俺はまた布団に戻って、そんで心の中で親父に何回も謝りながら泣いた。
    翌朝、弁当のことや今までのことを謝った俺の頭を親父はまたぐりぐりと撫でてくれて、
    俺はそれ以来親父の作った飯を残すことは無くなった。

    親父は去年死んだ。病院で息を引き取る間際、悲しいのと寂しいのとで頭が混乱しつつ涙と鼻水流しながら
    「色々ありがとな、飯もありがとな、卵焼きありがとな、ほうれん草のアレとかすげえ美味かった」とか何とか言った俺に対し、
    親父はもう声も出せない状態だったものの微かに笑いつつ頷いてくれた。
    弁当のこととか色々、思い出すたび切なくて申し訳なくて泣きたくなる。
    イイネ! 返信
  • [5] SS 2016/05/24 05:08

    PFCcV81F
    俺が小さい頃に撮った家族写真が一枚ある。
    見た目普通の写真なんだけど、実はその時父が難病(失念)を宣告されていて
    それほど持たないだろうと言われ、入院前に今生最後の写真はせめて家族と・・・と撮った写真らしかった。
    俺と妹はまだそれを理解できずに無邪気に笑って写っているんだが、
    母と祖父、祖母は心なしか固いというか思い詰めた表情で写っている。
    当の父はというと、どっしりと腹をくくったと言う感じで、とても穏やかな表情だった。

    母がその写真を病床の父に持って行ったんだが、その写真を見せられた父は
    特に興味も示さない様子で「その辺に置いといてくれ、気が向いたら見るから」と
    ぶっきらぼうだったらしい。母も、それが父にとって最後の写真と言う事で、見たがらないものをあまり
    無理強いするのもよくないと思って、そのままベッドのそばに適当にしまっておいた。

    しばらくして父が逝き、病院から荷物を引き揚げる時に改めて見つけたその写真は、
    まるで大昔からあったようなボロボロさで、家族が写っている部分には父の指紋がびっしり付いていた。

    普段もとても物静かで、宣告された時も見た目普段と変わらずに平常だった父だが、
    人目のない時、病床でこの写真をどういう気持ちで見ていたんだろうか。

    今、お盆になると、その写真を見ながら父の思い出話に華が咲く。
    祖父、祖母、母、妹、俺・・・。


    その写真の裏側には、もう文字もあまり書けない状態で一生懸命書いたのだろう、
    崩れた文字ながら、「本当にありがとう」とサインペンで書いてあった。
    イイネ! 返信
  • [4] SS 2016/05/23 01:25

    PFCcV81F
    「沖縄に行かない?」
    いきなり母が電話で聞いてきた。
    当時、大学三年生で就活で大変な頃だった。
    「忙しいから駄目」と言ったのだが母はなかなか諦めない。
    「どうしても駄目?」「今大事な時期だから。就職決まったらね」
    「そう・・・」母は残念そうに電話を切った。
    急になんだろうと思ったが気にしないでおいた。

    それから半年後に母が死んだ。癌だった。
    医者からは余命半年と言われてたらしい。
    医者や親戚には息子が今大事な時期で、心配するから連絡しないでくれと念を押していたらしい。
    父母俺と三人家族で中学の頃、父が交通事故で死に、パートをして大学まで行かせてくれた母。
    沖縄に行きたいというのは今まで俺のためだけに生きてきた母の最初で最後のワガママだった。

    叔母から母が病院で最後まで持っていた小学生の頃の自分の絵日記を渡された。
    パラパラとめくると写真が挟んであるページがあった。
    絵日記には
    「今日は沖縄に遊びにきた。海がきれいで雲がきれいですごく楽しい。
    ずっと遊んでいたら旅館に帰ってから全身がやけてむちゃくちゃ痛かった。」
    ・・・というような事が書いてあった。すっかり忘れていた記憶を思い出す事が出来た。

    自分は大きくなったらお金を貯めて父母を沖縄に連れていってあげる。
    というようなことをこの旅行の後、言ったと思う。
    母はそれをずっと覚えていたのだ。
    そして挟んである写真には自分を真ん中に砂浜での三人が楽しそうに映っていた。

    自分は母が電話をしてきた時、どうして母の唯一のワガママを聞いてやれなかったのか。
    もう恩返しする事が出来ない・・・
    涙がぶわっと溢れてきて止められなかった。
    イイネ! 返信
  • [3] SS 2016/05/22 02:53

    PFCcV81F
    幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。
    学もなく、技術もなかった母は、
    個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。
    それでも当時住んでいた土地は、まだ人情が残っていたので、
    何とか母子二人で質素に暮らしていけた。

    娯楽をする余裕なんてなく、
    日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに遊びに行っていた。
    給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。

    ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。
    俺は生まれて初めてのプロ野球観戦に興奮し、
    母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。

    野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。
    母がもらったのは招待券ではなく優待券だった。
    チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わなければいけないと言われ、
    帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、
    外のベンチで弁当を食べて帰った。
    電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、
    母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

    俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。
    新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。結婚もして、
    母に孫を見せてやることもできた。
    そんな母が去年の暮れに亡くなった。死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように
    「野球、ごめんね」と言った。
    俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。
    イイネ! 返信
  • [2] SS 2016/05/21 03:15

    PFCcV81F
    私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、
    母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えないほど質素で見映えの悪い物ばかりだった。
    友達に見られるのが恥ずかしくて、毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。
    ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。
    私は生返事でそのまま学校へ行き、こっそり中身を確認した。
    すると確かに海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし、彩りも悪いし、
    とても食べられなかった。
    家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこく尋ねてきた。
    私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので
    「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつく言ってしまった。
    母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。

    それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。
    母の遺品を整理していたら、日記が出てきた。
    中を見ると弁当のことばかり書いていた。
    「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」 日記はあの日で終わっていた。
    後悔で涙がこぼれた。
    イイネ! 返信
  • [1] SS 2016/05/20 02:24

    PFCcV81F
    6歳の娘がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて
    窓際に置いておいたから、早速何が欲しいのかなぁと夫とキティちゃんの
    便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、こう書いてあった。
    「サンタさんへ おとうさんのガンがなおるくすりをください! おねがいします」
    夫と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって
    少しメソメソしてしちゃったよw
    昨日の夜、娘が眠ったあと、夫は娘が好きなプリキュアのキャラクター人形と
    「ガンがなおるおくすり」
    と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておいた。
    朝、娘が起きるとプリキュアの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで
    「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げてた。
    早速朝食を食べる夫の元にどたばたと行って
    「ねえ! サンタさんからお父さんのガンが治る薬貰ったの! 早く飲んでみて!」
    っていって、夫に薬を飲ませた。
    夫が「お! 体の調子が、だんだんと良くなってきたみたいだ」と言うと娘が、
    「ああ! 良かった〜。これでお父さんとまた、山にハイキングに行ったり、
    動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね〜」……っていうと
    夫がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして
    「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めた。
    私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように
    鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えた。
    夫は娘には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしてた。
    その後、娘が近所の子に家にプリキュアの人形を持って遊びに行った後、夫が
    「来年はお前がサンタさんだな……。しっかり頼むぞ」と言ったので、
    つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けた。
    お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざった。
    イイネ! 返信